鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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が「藤之裏葉」から「若菜•藤之裏葉」に変更されたものの,前者がすでに述べたよが,それぞれ「松に白鷹白梅鷹」,「中西王母左右鶴」へと変わっている。この間,息子の晴川院が担当した二点の屏風も,中屏風が「唐耕作」から「大和耕作」,大屏風うに十月十三日,後者が十月廿五日に完成,細工所へ送られている。なお十月朔日と十二月四日には,今回の絵事御用の手伝いをした弟子たちに報酬が支払われている。特に十月朔日分について『公用日記』は,晴川院の担当した屏風の手伝いに対する手当だと明記する。となると「大和耕作」すなわちサントリー本『四季耕作図』には,弟子の手がそれも複数入っていることになる。おそらくは砂子蒔きや彩色の手伝いなのだろうが,サントリー本の画面を見るだけでは,どこまでが弟子の仕事なのか判然としない。が,こうした共同制作もまた弟子を多く抱えた「御用絵師」ならではの作画法なのであろう。興味深い事例である。次に後者。すなわち“奥”からの用命になる三幅対と二幅対の制作である。これについては,文政八年九月二十日に仰せ付けられたものが,それに相当するものとみられ,この後,九月廿二日三幅対を伊川院,二幅対を晴川院が担当,各伺下絵提出。十月五日十月六日十月廿六日完成,提出という手続きを踏んで,完成されたことが分かる。全く同じ時期に本間屏風一双と中屏風一双,それに二幅対の軸物一点,これだけの御用を晴川院は抱えていたのである。しかもこれらの制作は,婚礼当日に間に合わせなくてはならない。締め切りのある仕事であった。加えてこれらの御用に本格的に取り組む直前の九月二十日には,晴川院は,父伊川院と共同して仙洞への“御進献屏風”をも完成させているのである。これに本丸,西丸へ出仕する日常業務が加わる。目が回る程の忙しさであったことだろう。パトロンを持つ「御用絵師」の宿命ではあろうが,身につまされ,全く同情を禁じ得↓ 伺下絵はすでに提出済である旨,言上。↓ 正式に制作の下命,同時に画題は伺下絵のままとし,三幅対は「中郭子儀左右唐子」,二幅対は「瀧登鯉波二遊鯉」に決定。それぞれの伺下絵は宅下げとなり,本画制作に着手。↓ -495-

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