ンバランスになってしまっていることは否めない。そのような不整合が生じてまでも,異なる形式の袈裟を無準像の形に合成しているのであるから,本画像において袈裟は重要な要素として扱われているものと推測される。擬冗像の袈裟は,峨珊八角の環,えび茶色の地に青色を薄くかけた田相部と,青色の条葉,やや白っぽい青色の裏地からなり,文様なども無く素朴な色合の袈裟であるが,師の円爾弁円の画像(万寿寺蔵)や同門の山斐慧雲の画像(正覚庵蔵)にも同趣の袈裟が描かれており,注目される。なぜなら,本画像に描かれた袈裟が決して根拠の無いものではなく,東福寺における一つの流れに添うものであることが察知されるからである。擬冗が実際にこの袈裟を着していたかどうかはわからないが,画家はこの袈裟をなんらかの意図をもって表現しているものと思われる。また,無準像の形にならった部分においても,若干改変を行なっているところもある。例えば,擬冗の体格を意識して肩幅を広くしたり,無準像では不自然だった沓床の位置を修正し,左肩付近の背もたれを描き足す,といった点である。これは擬冗の肖像画としての,そして写実的絵画としての整合性への配慮を画家が行なったものと考えられる。つまり画家は単純に無準像を真似て擬冗像を制作しているわけではなく,さまざまな配慮をしながら,制作にあたっているのである。ところで,配慮ということでは,画家は擬冗の面貌を描くにあたっても,その魁偉な容貌の表現に神経を使っているようである。愛媛保国寺の木彫擬冗大惹像も,見開いた目,かたく結んだ口など共通する特徴をもち,厳しさ,激しさというものが擬冗の個性をあらわすものであったことがうかがわれる。ただし本画像は彫像よりも誇張の度合いが強い。輪郭を球形に近くし,目鼻口を求心的に寄せている。そのため目は吊り上がり,結んだ口は一層つよい弧を描いている。眉毛の端を上方にはねあげたり,髭を総毛立つように描くのも,気塊ある面貌を演出している。これほど強い表情はほかの頂相にはあまり見られず,羅漢画や,達磨図,臨済像などの祖師像に共通する気塊の表現を見出だすことができるのみである。擬冗は円爾の弟子となる前に,円爾の禅化を盛んにするのを聞き及び,円爾を論破しようと問答を挑んだエピソードを持つ。達磨図や臨済像が厳しい表情をもってその禅風を表そうとするのと同様に,本画像の面貌表現も,このエピソードに表される彼の激しい禅風を示すためのものと考えられる。-42 -
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