鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
510/590

⑭ 中尊寺金色堂堂内荘厳具に関する調査研究研究者:東京国立博物館学芸部法隆寺宝物室主任研究官加島1.問題の所在中尊寺金色堂は堂内外全面をおおいつくす漆箔と須弥壇,4本の巻柱,さらにその上方の長押や組物などにほどこされた蒔絵や螺細,各部材の要所にうたれた種々の金具類によって荘厳されていることで名高い。この金色堂は棟札の墨書銘から藤原清衡によって天治元年(1124)八月二十日に上棟されたことが知られ,おそくとも清衡が没した4年後の大治三年(1128)頃には完成していたとみなされる。しかし堂内に設置された三つの須弥壇,すなわち中央に位置する須弥壇とその左右にもうけられた脇壇(西北壇と西南壇)の造営経緯に関しては,いまなお定説をみない現状にある。2.従来の研究近世以来の寺伝では中央壇は清衡によって造立され,彼の遺体をおさめた棺がその内部に安置されたとし,脇壇については西北壇が基衡,西南壇は秀衡によってそれぞれ造立され,各々の遺体をおさめた棺が各壇内に安置されたとする。この寺伝のうち,中央壇が清衡によって金色堂の完成とおなじ頃には造営されていたとして寺伝どおりとすることは大方みとめられている。しかし両脇壇に関しては,中央壇におくれて増設されたとみなす点では一致するものの,その時期と各壇が基衡,秀衡のどちらによって造営されたかというその経緯に関しては,(石田茂作「金色堂の設計と遺体の安置」〔『中尊寺と藤原四代ー中尊寺学術調査報告書ー』〕所収他)研究』222• 225 • 228号〕,浅井和春「金色堂の諸仏をめぐる二〜三の問題」〔『中尊寺黄金秘宝展奥州平泉文化の全貌』所収〕諸問題」〔『澤柳先生古希記念美術史論文集アガルマ』所収〕)(1) 寺伝とは逆に西南壇を基衡による壇,西北壇を秀衡による壇とみなす寺伝錯誤説(2) 寺伝のとおりであるとする寺伝容認説(久野健「中尊寺彫刻とその周辺」〔『美術(3) 両脇壇ともに基衡による造営とみる説(藤島亥治郎『中尊寺』)(4) 両脇壇ともに秀衡による造営とする説(荒木伸介「奥州藤原氏造営寺院をめぐる(5) 両脇壇ともに秀衡没後に造営さたとする説(大矢邦宣「中尊寺金色堂内両脇壇〔『岩勝-501-

元のページ  ../index.html#510

このブックを見る