鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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の裏付けとなろう。このように金色堂堂内の須弥壇は各須弥壇の工芸意匠の面からだけでなく,同堂所用の荘厳具の上からもその造営に3度の契機が認められる。それぞれの契機の第一番目は無論,清衡による中央壇が完成した時(大治三年〔1128〕頃)で,これに続く契機は基衡が急逝したとされる保元二年(1157)頃に秀衡によって構想されて西北壇がまもなく完成した頃,そして第三番目の契機はその後に西南壇が完成した頃とみなすことはありうることであろう。両脇壇のあいだにみとめられる顕著な工芸意匠の差は,明らかに両脇壇の制作年代のちがいを示しているとおもわれる。今回の調査研究では,金色堂堂内荘厳具を寺伝に基づいて取り上げた。この寺伝を有する個々の荘厳具の伝来過程を具体的に実証することははなはだ困難で,本調査研究がすでに述べたように明治二十八年(1895)に古社寺保存を目的として実施された調査の目録『岩手県宝物目録』の記載によって,この時点で確認される伝来に基づいてなされたものであることを改めて付記しておきたい。中尊寺に伝えられる仏具には,この金色堂所用の寺伝を有する荘厳具のほかに,経蔵所用の寺伝を有する現在大長寿院所蔵にかかる螺細八角須弥壇,螺細平塵案,螺細平塵燈台,螺細平塵礼盤,孔雀文磐及び螺細平塵磐架といった荘厳具の数々も見逃してはならない存在である。特に螺細平塵案以下の諸作例に関しては,金色堂堂内で用いられたとみなす見解もすでに提出されている。しかし,近年まで文殊菩薩騎獅像及び四脊族像の台座として経蔵内に安置されていた螺細八角須弥壇の存在も重要である。現在,原本が失われ14世紀の写本が伝えられる「中尊寺供養願文」は,諸先学によって指摘されてきたようにその内容に関して厳密な批判が必要であるが,同願文には「ニ階瓦葺経蔵一宇/奉納金銀泥一切経一部/奉安置等身皆金色文殊師利尊像一体」とあり,螺細八角須弥壇上には独尊の文殊菩薩像が安置されていた可能性もあろう。今後はこうした経蔵内の荘厳を含め,本調査研究で得られた基礎的データをもと経蔵所用と伝えられる作例との厳密な比較研究をさらにすすめることにより,金色堂堂内の造営経緯の問題のより総合的な理解につとめてゆきたいと思う。-507-

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