鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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なわち円爾が弘安3年(1280)10月17日,死の直前,病苦に耐えて書した1易の内容は「利生方便/七十九年/欲知端的/仏祖不伝/弘安三年十月十七日/東福老珍重」であり,この第3,4句の「欲知端的/仏祖不伝」を自分の言葉になおして承けたのが,擬冗の「要知端的歿魂霊」なのである。さらに,諸先学の指摘するように,円爾の「欲知端的/仏祖不伝」は円爾の師である無準の遺偶中の文言「更要問端的/天台有石橋」を承けたものである。従って,擬冗の自賛は,この端的云々という文言がきわめて重要な意味を持つことを踏まえたうえで書されているわけである。そこには無準一円爾の遺偽を承けることによって,自らの嗣法の正統性を示そうという意識がうかがえる。この著賛を求めた性印庵主とは,擬冗が当時住持をしていた伊勢安養寺の第2世となる人であり,つまり開山擬冗から,のちに第2世となる一番弟子への頂相付与,という場面において書された賛であるわけである。また当時の安養寺は開創間もない頃であり,このような状況を踏まえたとき,擬冗が端的云々という文言を自賛に盛り込んだ意図もより理解できるであろう。以上のように本画像は,東福寺においてもっとも重要視される無準師範像の衣や曲条などの道具立ての形にならいつつ,そこに巧みに擬冗の体を滑り込ませて,擬冗のイメージを作り上げていく手法や,自賛に無準一円爾の遺偶の文言を承けることなど,複雑な思考を経て成立した作品であることを認識させる。本画像を生みだした人々の頂相に対する理解の深さと積極的に関わる姿勢を見て取ることができる。また,無準像にくらべれば劣るとはいえ,面貌における強い陰影による立体的把握や,細部の緻密な描写などは,我国の中世の肖像画のなかでも際立っており,宋代肖像画の技術がかなり吸収消化されていることがうかがえる。もちろんこうした頂相が突然我国に生まれたわけではなく,ここに至るまでにすでに頂相文化が我国に相当定着してきており,熟成された土壌のなかから生み出されたものと考えられる。つぎに鎌倉中後期の東福寺における頂相制作の様子を,円爾のものを中心に見てみよう。我国に頂相がもたらされたのは,12世紀末,大日房能忍が弟子に請来させた拙庵徳光像が最初とされる。また栄西や道元の入宋などがあり,禅宗文化は徐々に我国にもたらされるようになったが,頂相文化を本格的に輸入し定着させたのは,円爾である。その最たる功績のひとつは無準像を請来したことであるが,彼は帰国直後の仁治2年-44-

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