鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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18世紀になると,異文化との境の地というイメージが残り,いつも異文化との出会い18世紀における実際の国境は海岸であった。海外交流の港といえば150年間長崎だけり戻すために正当派の画家達は当然大きな影響力を持っていた。そのため私の解釈では,寛政の改革の重要性は美術史で判断できる。図像的な制作が多く,たとえば徳川権力の第一のモニュメントであったH光東照宮,輪王寺,また江戸や京都の徳川家と関連した寺院が一部改装された。18世紀前半において狩野派は美術市場の価値を失い,その後建て直しのために新しい風を吹かせた。田沼の時代において既に狩野典信は,十代将軍徳川家治と田沼本人に近い存在であったので狩野派全般にわたり最高の地位となる木挽町狩野が創立され典信が塾長となった。これは学院行政の復活であったが,しかし狩野派の美術的な甦生とは一致しないと考えられていた。木挽町の創立にもかかわらず様々な反対意見が聞かれた。定信は狩野派をあまり使うことはなく,むしろ住吉,特に広行を好んでいた。また彼は谷文晃のような正当派でありながら昔の御用絵師の家系に属さない人々に目を向けていた。わたしの研究はこのような人々を中心として成り立つ。寛政の改革の美術に対する制作のいくつかは19世紀つまり定信が退位する時期まで続く。『集古十種』という日本全国の美術作品の目録を作らせたのが退位後の定信で資料集めのため文晃や広行などを日本全国に行かせ美術品を模写させた。定信の興味は,日本の過去を保存し,物理的に復活させ,というより日本の過去に新しい定義をあてはめることであった。この復活の中の新しさをすでに京都内裏の再建の計画にみることができる。1788年京都の大部分が焼失し,定信がこの再建の指揮をとった。このとき公家と幕府との間に軋礫が生じ,結局内裏は平安時代以降みることのなかった古風な建造物となった。この内裏は復興といわれたが,実は新しいことが充分含まれていた。過去を考え直したり「日本」の新定義を与えたりするのは国内的な理由で行われただけではない。定信は白河出身であるが,白河は昔から異文化との境の代名詞であった。「白河の関」は旅人の日記に必ず登場し,西行法師も松尾芭蕉もそこで歌を詠んだ。の危うさを意識していた定信は自分を「白河侯」と呼ばせた。であった。定信の命令でオランダ船の入港は年に二隻から一隻に制限された。しかし,西洋文化を簡単に排除することができなかった。1790年代,英国海軍は日本列島を測量し,海外から日本を定義されるのを感じることになった定信は内側からの新定義を-529-

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