いる(『聖一国師年譜』,以下『年譜』)。その後,記録や遺品から確認できる円爾の自賛像には,建長5年(1253)2月,三林長老に与えたもの(『年譜』)文永元年(1264)5月著賛像(天授庵蔵)弘安2年(1279)2月,直翁智侃に与えたもの(『年譜』)同年秋,蔵山順空に与えたもの(『年譜』)同年11月,東山湛照に与えたもの(『年譜』,万寿寺蔵)弘安3年(1280)4月,「禅人」に与えたもの(『京都美術大観巻八肖像』東方書院,昭和8年に収録される)同年5月,辮雅首座に与えたもの(『年譜』)同年5月,奇山円然に与えたもの(『年譜』)同年5月,正堂俊顕に与えたもの(『年譜』,東福寺蔵)などがあり,このはか時期はわからないが,任淵上座,孝仙,明辮庵主といった人たちに与えたものがある(『聖一国師語録』)。これが円爾の自賛像の全てではないだろうが,弘安以前はあまり頻繁に著賛することはないようで,弘安2,3年に集中的に著賛していることは注目される。円爾はこのころすでに70歳代の後半にあり,高齢のため病気がちで,辮雅首座ら3人に著賛した弘安3年5月にも病を得ている(『年譜』)。そして5ヵ月後の10月に円商は亡くなるのであるから,この集中的な著賛は円爾の死期と密接な関わりがあると考えられる。弟子たちは,師の亡くなる前に嗣法の証として師の自賛像を拝受する必要があっただろうし,円爾も病をおしてそれに応えたのであろう。東福寺の人々に,師の自賛像というものが,深刻な問題をはらむものとして,重要視され始めていることがうかがえる。この背景には,円爾の門下に,入宋してそれぞれ彼の地の高僧の頂相や,頂相に関する知識を得て帰国した人が増えてきていることがあり,また来朝僧がもたらす文化の広がりということもあるだろう。ともかく,この円爾の集中的な著賛という出来事は,頂相というものが禅宗社会においてどのような役割を果たすか,ということへの東福寺僧の認識の深まりを示しているが,同時に,認識の深化にさらに拍車をかけたのではないかと思われる。例えば,円爾の弟子で東福寺第3世の無関普門が正応4年(1291)に亡くなる直前にも,諸弟(1241) 8月15日に早くも張四綱という人のもとめに応じて,自身の肖像に著賛して-45 -
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