注子が師無関の頂相を描いて,無関に著賛を求めている(『無関和尚塔銘』)。この時彼らの脳裏には,円爾示寂直前の出来事の記憶があったに違いない。円爾が無準像を携えて帰国したのが仁治2年(1241)であるが,円爾の亡くなる弘重要な位置を急速に占めるようになっていった。円爾の弟子の数は非常に多かったから,彼らの世代になると頂相の数は増えてゆき,頂相に関するさまざまな知識も蓄積されていったことであろう。擬冗大慧像のように複雑な思考,制作の際の配慮などを経て成立した頂相も,以上のような東福寺における頂相文化の蓄積なしにはとうてい生まれ得なかったと思われる。(1) 擬冗大慧像についての基礎的研究は,拙稿「願成寺所蔵擬几大慧像考」(『美術史学』17号,1996年3月)において行なっているので参照されたい。(3)井手誠之輔「(図版解説)大応国師像」『H本美術全集第9巻縁起絵と似絵鎌倉の絵画・エ芸』講談杜,1993年8月瞳三角眼」と記されている。安3年(1280)を中心とする13世紀後半に,頂相という肖像画が東福寺の人々の間で(2) H. Brinker und H. Kanazawa, Zen : Meister der Meditation in Bildern und Schriften, Zurich, 1993, p. 242. H. Brinker and H. Kanazawa, Zen : Masters of Meditation in Images and Writings, Zurich, 1996, p. 248. (4) 白石虎月『東福寺誌』(大本山東福寺,1930年4月)(復刻版,思文閣出版,1979年6月)169頁所収の,東陵永瑕の「無関国師賛」(観応3年(1352))にも,「重-46-
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