は関連性はきわめて僅かしか認められないが,90年版と98年版の挿し絵には,68年版挿し絵の流用の部分が多い。4版の中で挿し絵が質量ともにもっとも充実しているのは,68年版であり,これを今回の調査の対象と決定した。挿し絵についての記述に入る前に,著者ルイ・ブランと『フランス革命史』について,次に簡単に記しておこう。ルイ・ブランと『フランス革命史』ルイ・ブラン(1811■82)は,カトリックで正統王朝派の家庭に生まれたが,父がルイ十八世に与えられていた年金を,1830年の七月革命ののち権力を得たルイ=フィリップによって停止され,一家は生活の手段を奪われた。この体験によってルイと弟シャルル(美術批評家。第二共和制下に美術大臣を務める)は,七月王政に敵意を抱いて左傾化し,社会主義者,共和主義者としての道を歩むようになる。1847年,『フランス革命史』第1巻を著したが,翌48年,二月革命勃発直後に成立した第二共和国臨時政府の一員となり,現実の政治の場に巻き込まれてゆく。ルイ・ブランは臨時政府内の急進派くレフォルム派〉に属し,労働者のための社会改革を目指してく進歩省〉の創設を主張するが,ブルジョワ共和派くナショナル派〉によって阻まれ,労働者対策委員会の委員長に任命されるにとどまった。しかも当時の労働問題は,政府の後ろ盾を持たない一委員会によって解決されるには余りに大きな困難をはらんでおり,特にルイ・ブランの提案に端を発する国立作業場は,生産性の割に膨大な経費がかかり,それに属さない農民や小商工業従事者の怨嵯の的となった。さらにこの国立作業場は,その閉鎖をめぐってブルジョワ支配の政府と労働者階級の対立を招き,前者の圧倒的勝利に終わった六月暴動を引き起こすきっかけとなった。このときルイ・ブランは敗者側の一貝として,イギリスに亡命することになる(1871年帰還)。『フランス革命史』の続巻は,亡命先のロンドンで執筆された。この著作に表れたルイ・ブランの革命思想の基本はジャコバン主義であり,19世紀の革命観において論議の集中するところであった恐怖政治を必要悪として擁護し,ロベスピエールの復権を図るものであった。パリ国立図書館の蔵書目録によると,『フランス革命史』は19世紀中に6種の版が刊行され,ティエール,ミシュレ,トックヴイル,キネ等の革命史と並んで広く読まれた著作であった。-554-
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