鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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戦場と対置される“女性的”な側面が強調された。それは同時にさまざまな形での女性ヌードの氾濫をも意味した。こうした女性裸体像は,時には自然や祖国,あるいは生命力の擬人化であり(注4),同時にまた戦中の混乱からの社会秩序の回復にともない,西欧近代の男性中心杜会において制度化されてきた,男性のまなざしによって支えられる「芸術」そのものの復興を告げるしるしにはかならなかった(注5)。19世紀後半まで裸体画を正統化してきた形骸化したアカデミスムに由来する歴史画的主題はもはや深刻に考慮されず,裸婦はそれ自体として絵画の重要な主題となった。大戦後のフランスにおいて広く見られたアカデミスムに対する反発は,1919年に再開されたサロン・ドートンヌや1920年に再開されたアンデパンダン展,1923年に新たに創設されたサロン・デ・チュイルリーなどで活躍する画家たちへの関心の高まりを導いたが,こうした同時代の芸術の認識は,ドイツやイギリスで先んじて方向づけられたいわゆるモダニズム/フォルマリズムの歴史意識とは別の形で行われた。フランスでは,造形重視の前衛主義とは結びつかない形での同時代の芸術,すなわち「生きた芸術l'artvivant」への注目は,新しい感性によるフランスの伝統の再創造(注6)の強調と結びついたのであった。しかしその主張は戦前に登場した“イズム”の変質もしくは終焉とともに(注7),かつての芸術の流れに基づいたいくつかの傾向に分かれ,複数の概念が錯綜した形でそこに結びついた。そうした流れの一つは戦前のキュビスムに由来する傾向で,それ以外の傾向は,しばしば表現主義あるいは自然主義とみなされ,そのなかでも時には印象主義的傾向とより構成的な傾向とが区別された。フランスの伝統の中心をなす古典主義的傾向は同時代の芸術の中に繰り返し肯定的に確認されたが,とりわけキュビスムに由来する傾向のもつ幾何学的構築的な造形と重ね合わされた。こうした見方はすでに1910年代初頭にキュビスムが画壇に登場したときから,批評家や芸術家たちによってキュビスムを批難から守り,フランスの正当な芸術的傾向として位置づけるために展開されていたものだったが(注8),第一次大戦後におけるピカソ等の具象性を増した人物表現に代表されるとおり,戦前の前衛たちの作品の傾向は,戦後単なる批評的言辞を超えて,造形的,主題的にも古典主義を明らかに意識したものとなっていたことは,すでに多くの指摘がなされている(注9)。大戦後の批評において同時代の芸術の重要性は今日の前衛主義的な歴史観とは別の形で認識されたものの,それを印象派以降の新たな歴史的展開の中に,あるいは印象-48-

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