鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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たとき描いた「裸体婦人像」では,「読書」を思い出させる強い立体表現が用いられている。しかし,それだけではなかったはずである。それを証明するのが,大腿部の表現である。「読書」では確かな奥行きをもっていたのに,「湖畔」では非常に曖昧になっている。失われてしまっているといってもよい。そもそも,黒田は種子の大腿部を手と団扇で隠してしまっているのである。このような違いは,衣服全体についてもいえる。種子の浴衣は顔よりもさらにあっさりと描かれている。もちろん,ここでも陰影法は使われているのだが,それに対する黒田の興味は,それほど強くないように思われる。これも「読書」と比べてみるとおもしろい。基本的には同じ布でありながら,「読書」においては,光と影により客観的に描きだそうとする黒田の意思がはっきりと感じられる。それに対し,種子の浴衣はそのような執拗さを欠いている。もちろん,陰影が付けられていないわけではないし,窓際と湖畔という環境の違いも考慮に入れなければなるまい。しかし,もしその気になれば,この浴衣を「読書」のモデルとなったマリア・ビヨーの赤いブラウスや紺色のスカートのように,写実的に描くことも充分可能であったはずである。しかし,黒田はそうはしなかった。特に興味深いのは,浴衣の白い縞模様である。<筆〉のタッチや動きが強く感じられるからである。肥痩豊かで揺らめくような線は,一筆で引かれている。筆割れやかすれまで,そのままである。もちろん,種子の浴衣が実際に縞模様であったのだろうが,それを客観的に描きだそうとする意思はすでになく,黒田はく筆〉そのものがもつ表現力を楽しんでいるようなところがある。<筆〉が重要な役割を果たしているという点では,水墨画的であるともいえる。このような顔貌と衣服の対比は,渡辺単山の肖像画などを思い出させるところがある。これはこれでまた別に論じられるべき問題だが,ここでは種子が持つ団扇に注目してみよう。これには萩が描かれている。その水墨画調を,黒田は油絵で再現しているわけだが,縞模様の描写はそれとほとんど同じような筆の使い方なのである。あるいは,現実の描写から離れて,主体に中心を移しているという点では,主観的であり,画家の感覚性が強いともいえよう。以上,私は「湖畔」の表現を種子の顔と浴衣に分けて見てきた。「読書」から「湖畔」ヘ,陰影が弱まり,量感が失われ,奥行きが短くなり,材質のもつ比重が高まり,感-565-

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