覚的になっている。一言でいって,表現がシンプルになっている。このような美的特質こそシンプリシティー,少なくともその一側面であるということができる。それでは,このようなシンプリシティーヘの傾斜はなぜ起こったのであろうか。「湖畔」のモデルが,後年その当時の状況について語ったという,よく知られた回想がある。あれは,私の二十三歳の時で,主人が湖畔で製作しているのを見に行きますと,其処の石に腰かけて見てくれと申しますので,そう致しますと「よし,明日からそれを勉強するぞ」と申しました。そこで,翌日の午後四時ごろからはじめました。下絵も何もなくぶっつけにカンバスに描きはじめました。雨や霧の日があって,結局一ヵ月ぐらいかかりました。明治三十年(1897)の夏黒田は金子種子,のちの夫人照子とともに箱根の芦ノ湖へ避暑に出かけた。その時のことである。黒田がこの作品を描くことになったのは,恋人の浴衣姿にインスピレーションを得たからであった。つまり,黒田の直観に出発したことになる。直観とは,判断・推理などの思惟作用の結果ではなく,精神が対象を直接に知的に把握する作用(『広辞苑』)である。直観をもとに描かれた作品は,当然ながらシンプリシティーを大きな特徴とすることになる。私はこれを直観的シンプリシティーと呼びたい。しかもこの場合,直観に発するだけではなかった。特に構想も練らず,下絵も作らず,いきなりカンバスに描いたという。それまで黒田は,ことあるごとに理念や構想に従って作品を構築することの重要性を唱えてきた。しかし「湖畔」では,それをあっさりと捨ててしまった。制作の契機だけでなく,制作のプロセスにおいても直観が重視されたのである。「湖畔」は直観的シンプリシティーの作品であった。高階秀爾氏は「湖畔」をまったくスケッチと同じ方法で完成させた作品とし,「それまでは大構図のための下絵か,あるいは技術的訓練でしかなかったスケッチが,そのまま完成作品として黒田の活動のなかで大きな位置を占めるようになって来た」と見なしている(注1)。また三輪英夫氏は「黒田が目指した日本的洋画の最も好ましい作例」(注2)としている。これらは私のいう直観的シンプリシティーを,また別の観点から指摘したものであろう。
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