直立する。それは平安前期の仏像一一たとえば神護寺の薬師如来立像—を思わせる表された(注3)。高階氏は根本資料に斬新な着想を加えて,「智.感・情」が岡倉天心の世界観の絵画的表現であったことを,みごとに論証してみせたのである。この論考に従いつつ,シンプリシティーの観点から考えてみたい。これがきわめてシンプルな構成をとっていることは,改めて指摘するまでもないであろう。シンプリシティーを基本的構成原理としているといっても過言ではない。それはまず姿態[ポーズ]に現われる。特に中央の「感」の左右相称にして明快な姿態は圧倒的である。真正面を向き,両手を同じ角度で上げ,両足に等しく体重をかけてところがある。黒田も大きな影響を受けたにちがいない西欧の三美神図ラファエルロの「三美神図」(コンデ美術館蔵)―と比較するならば,「感」の姿態がいかにシンプルであるか,指摘するまでもないであろう。ラファエルロでは伝統的なコントラボストが採用されているのに対し,黒田はそのような複雑な姿勢を捨ててしまっている。この作品のシンプリシティーを考える上で,明快な輪郭線の果たしている役割も見逃せない。一般に,絵画の芸術的価値は色彩価値と形態価値に分けられることが多いが,線は形態価値において,もっとも重要な要素であるといってよいであろう。それを基本とするのが「素描」であることからも明らかなように,線はあらゆる形態を単純化して示すことができる。ハーバード・リードが言っているように,天オの手にかかると,線は量感でも運動でも自由自在に表現してしまうのだが,もっとも中心的な機能が単純化にあったことは論をまたない。だからこそ,東洋画では特に高い地位を占めているのである。根底に東洋の書画一致思想があるためである。漢字が対象のもっとも単純化された形態を基本としていることからも,線とシンプリシティーの関係は明らかであろう。黒田はこのような線の機能を最大限に発揮させることにより,人体という複雑な対象に,明快なフォルムを付与したのである。ここでも肉体にはアカデミックな陰影法が用いられている。しかし,それがこの朱色の輪郭線によって,明快な形のうちにとじ込められた印象を与えられるのである。喜多川歌麿の「錦織歌麿形新模様」は,朱線による顔の輪郭線を用いている。「湖畔」との類縁性に興味引かれる。しかしどうじに,無輪郭がいかに形態を拡散させてしまうかを,雄弁に物語っている。たとえば-567-
元のページ ../index.html#577