鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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画面形式の問題も避けて通るわけにはいかない。一つ一つの画面は,縦180センチほど,横100センチほどである。掛幅と同じ縦長の画面である。掛幅といってもやや幅広で,たとえば懐月堂派の肉筆美人図に多いプロボーションである。懐月堂派のほとんどは一人立の美人なのだが,「智・感・情」は一人立のヌードというわけである。このような縦長の画面形式とシンプリシティーは,やはり無関係ではありえない。それは群像よりも,一人の人間の表現によく馴染む。日本の宗教絵画で,一人の仏様を描く独尊像が多いのはそのためである。世俗画の人物図でも,一人の人間をとらえる傾向を生む。山水画や花鳥画においても,縦長画面とシンプリシティーのあいだには関係があるのだが,少なくとも人物画においては,密接であるように思われる。黒田は「智.感・情」という3つによって人間や世界に対するある観念を表現したわけだが,それをラファエルロのように,一つの画面にはまとめなかった。この作品が白馬会に出陳されたときは,間をあけずに共通の額縁にはめ込まれていた。高階絵里加氏が指摘するように,それは仏画の三腺像形式であり,三幅対形式であった。統ー的観念を示しながら,一つ一つの画面は独立もする。浮世絵でいえば,三枚続である。もし完全な一画面に描くとしたら,黒田はもっと複雑な姿態や構成に変えなければならなかったであろう。縦長の画面が,この作品のシンプリシティーと不可分に結びついているのである。以上3つの点にまさって重要なのは,背後の金地である。いわゆる総金地で,何も描かれていない。このバックにより,シンプリシティーは完璧なものとなる。ラファエルロ「三美神」の背後の風景を完全な金地に変えてしまった場合を想像すると—――実際コンピューター・グラフィックにより現在では可能なのだがかなりシンプルな画面となるのである。全面金地といえば,すぐに想起されるのが俵屋宗達や尾形光琳に代表される琳派である。「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵)や「燕子花図屏風」(根津美術館蔵)である。事実,高階絵里加氏によれば,明治三十年五月発行の『ファー・イースト』誌上に,黒田が寄稿したフランス語の論文「日本の絵画」は,「われわれはつねに単純な線と明るい色彩を愛そうではないか!レンブラントではなく,光琳になろうではないか!」という実に暗示的な一節をもって結ばれているのである。さらに高階氏が,仏画における金地荘厳が意識されていた可能性を指摘するのは卓見であろう。以上「智.感・情」のシンプリシティーについて,姿態,輪郭線,画面形式,金地,これだけでも-568-

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