背景の4点からながめてきた。このような表現の根底においてシンプリシティーを支えていたのは,ある観念をある物体で表わそうとする象徴的な志向であったにちがいない。高階絵里加氏が発見したように,それまで一般的であった「智情意」の「意」を「感」に変え,しかもそれを中心に据えたのは天心であった。黒田はその天心の考え方を取り入れたのである。したがって,その象徴的志向を黒田一人のものではなく,天心との共通志向というべきものであるが,いずれにせよ,それがこの作品を生み出す最大の契機だったのである。私はここに日本の伝統を感じる。さらに言えば,東洋の伝統を見出す。改めて言うまでもなく,日本を含めた東洋では,このような象徴的表現はごく一般的なものであった。ただし,それは植物や山水によって行なわれた。特に注目されるのは植物である。たとえば,松は厳寒の候も緑を失わない。つまり,逆境にも意思を曲げることのない君子の象徴であった。竹は真っ直ぐで節[ふし]がある。清廉潔癖で節[せつ]を守る高士である。梅はいまだ寒さの残る早春に花を開く。周囲に迎合することなく,自分の道を歩む男子である。3つを合わせて歳寒三友となり,永遠に変ることのない友情を象徴する。誰に知られなくても深山幽谷で複郁とした香りを放つ蘭,すべての花が散ってしまったあとも傲然と咲き続ける菊を,梅と竹に加えて四人の君子となる(注4)。これらの植物は単なる植物ではなかった。必ずそのになう象徴的意味が付随していた。いや,象徴的意味を表わすために,それらの植物を描いたといった方が正しいだろう。天心や黒田は,このような植物と観念が表裏一体をなす東洋に生まれ育ったのであった。ただし,天心と黒田は植物の代りに人体を用いた。もちろん,これは西欧の擬人的表現のやり方であり,彼らはそれを採用したのである。3年後に迫ったパリ万国博覧会を考えてのことである。しかし,西欧の寓意的な擬人像では,多くの場合シンボルとなるものが手に持たされたり,脇に添えられる。先のラファエルロの「三美神」が持っているのは,ヴィーナスの象徴であるリンゴのように見える。このような物体による間接的シンボリズムから,「智・感・情」の直接的シンボリズムヘ飛躍する過程で,先に指摘したような東洋的象徴主儀が作用しているのではないだろうか。もっとも,これも高階絵里加氏によれば,当時のパリ画壇では,裸婦や女性像にメランコリー,瞑想,黙想,霊感などの抽象的,象徴的題名を付けることがはやっていたという。天心と黒田がそれから文字どおり霊感を得たことは疑いない。残念ながら,-569-
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