12)。涙かいわゆる後期印象派の画家との関連において位置づけようとする方向性は多く認められた。その際もっとも重要な位置を与えられたのはセザンヌとルノワールだった。アングルとともにキュビスムの源泉として幾何学的なあるいは古典主義的な構成を代表するセザンヌと,色彩豊かで自然主義的印象派的な傾向の源泉としてのルノワールは,どちらもフランスの伝統のよき継承者として同時代の芸術と伝統をつなぐ重要な役割を与えられたのである。セザンヌはすでに1906-07年ごろからフォーヴやキュビスムの方向へ向かうことになる若い画家たちから熱狂的に支持され,大きな影署を及ぼしていたが,ルノワールは,1919年の死の翌年のサロン・ドートンヌでの回顧展の成功によって,その晩年の女性像に代表される官能性や喜び,自発性や新鮮な感覚を失わない調和に満ちた造形とともに,フランスの伝統,さらには西洋絵画の伝統の完全な継承者(注10)として重要な位置を与えられ,両大戦期に盛んに描かれた女性裸体像の表象に刺激を与えた。マチスもニース時代のはじめにルノワールを何度か訪問し,助言を得ることによってその画風の変化に菫要な影響を受けたとされている(注11)。大戦直後から20年代前半に活躍していた画家のうち,キュビストと呼ばれたピカソ,ブラック,レジェに対して,ドランや当時非常に人気の商かったスゴンザックやファヴォリー,そしてマチス,ボナール等はしばしば自然主義的な傾向に分類された。アンドレ・ロートは同時代の芸術をさらに細かく分類し,アカデミスム,キュビスムの他に,印象主義の流れを汲むものとして存命中のモネはもとより,マチス,ボナールを位置づけ,これに対して構成的な自然主義にドラン,スゴンザック,ファヴォリーの名を挙げ,そこにはセザンヌとルノワール双方の影響が見られると論じている(注しかし20年代前半のさまざまな批評におけるマチスの位置づけををさらに細かく見てゆくと,より複雑に錯綜した状況が明らかになってくる。第一次大戦後のフランスにおけるマチス観ーンを先取りするかのように実現したマチスとピカソの二人展は,後世の目から見ればその後の20世紀を代表する二大巨匠の最初のラインアップとして興味深いが,当時のこの二人の画家の位置づけを知るうえでも意味深い出来事であった。この展覧会では,ピカソは青の時代から最近作まで,マチスはモロッコ時代の作品を含む12点が展1918年,アポリネールの助力を得て若き画商ポール・ギヨームが大戦後のアートシ-49-
元のページ ../index.html#58