鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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私はそれらの作品を知らないので,「智・感・情」と具体的に比較することはできない。しかし,一般的に象徴主義といわれるポン=タヴァン派やナビ派の作品には,「智・感・情」のような作品は見当らないように思われる。少なくとも,象徴性を装飾的作風のうちに忍び込ませて人気を一身に集めたアルフォンス・ミュシャは,西欧の間接的象徴主義の確かな子孫であったのである。「智・感・情」のシンプリシティーは,このような直接的象徴主義と密接な関係に結ばれているように思われる。ある物体をそのままシンボルとする場合には,細かい部分まで写実的に描くまったく必要はなかったからである。象徴としてイメージされたとき,微細な箇所は切り捨てられて,シンプルなものに純化されるからである。先に見た「智.感・情」のシンプリシティーは,このような直接的象徴主義の結果であったのである。したがって,これを象徴的シンプリシティーと呼びたい。それがイメージの所産であった点から,心象的シンプリシティーと呼んでもよい。このような私の見解が,単なる思いつきでないことは,先の二作と同じく東京国立文化財研究所に所蔵される「梅林」によって証明されるであろう。これは大正十三年(1924)の早春つまりその年の7月に没する黒田が,死の数ヵ月まえに描いた絶筆である。前年の12月,黒田は宮内省に出勤しているとき狭心症に襲われた。東京麻布絆[こうがい]町の別邸の離れで療養生活に入った黒田は,早春のある日,そこから邸内の梅林を望んでこれを描いたのであった。筆で塗りたくるように下地を作った上に,箪とペインティング・ナイフを使いつつ,きわめて荒いタッチで梅を描いて行く。特に中央の梅の悶えるような樹幹,せわしない筆致の白い花は,一度見たら忘れられない。書きなぐったという印象さえ受ける。しかも重要なのは,サインは加えられていないけれども,これが完成作と見なされる点である。種子の浴衣の縞模様に見た<筆〉の自律性が,極限にまで進んだものということができる。その意味で,やはりシンプリシティーを特徴とする作品といってよいであろう。黒田がここに梅を選んだのは,単に病室から見えたといった偶然にだけ起因するものではあるまい。先に見たような梅の象徴的意味を,むろん黒田は知っていた。それと主題選択は密接な関係があったと考えられる。そもそも,庭に梅を植えること自体,象徴的意味と無関係ではなかったというべきである。しかし,この場合それを指摘しただけでは不十分であろう。歳寒三友や四君子は,-570-

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