寓意的主題であるとともに,画家のそれに対する共感を表明する画題でもあったからである。そしてしばしば,共感を越えて,画家の心境や意趣自体を投影したのである。中国に発し,日本でも圧倒的支持を得た文人画とは,まさにそのような絵画ジャンルであった。「梅林」もこのような歳寒三友や四君子の伝統に,やはり連なっているのではないだろうか。ここには明らかに黒田の心情がはっきりと写し出されている。「作者の内部の怨念のようなものを吐露した妖しい迫力」「死期を迎えた黒田の心境」「画家の心象を反映して鬼気を帯びている」など,多くの研究者によって指摘されるところである。そのような心情吐露は,梅という主題によって初めて可能になったものなのである。以上,黒田清輝という洋画家を取り上げ,シンプリシティーヘの傾斜が見られることを指摘した。作品により,直観的シンプリシティー,象徴的シンプリシティーの二つの性格がうかがわれることも明らかにした。おそらくこのほか,装飾的,詩歌的,諧諒的シンプリシティーなどが考えられるであろう。しかし,それは黒田に限られるものではなかった。日本近代洋画を貫く大きな特色であった。いや,それは日本美術最大の特質であると言った方が正しい。日本美術の歴史における長い時間を占める中国美術受容の過程においても,はっきりと看取されるからである。日本美術の特質とは,まさにこのシンプリシティーに尽きると言うことができるのである。細かく見ていけば,日本美術にもさまざまな特徴がある。これは日本美術に限らず,どこの国の美術でも同じことである。それを一つの言葉で性格づけることなど,所詮無理なのかもしれない。しかし,少なくとも日本美術に関する限り,さまぎまな特徴がシンプリシティーという特徴に収倣していくように思われる。シンプリシティーという大きな特徴があって,それがさまざまな現われ方をしているといった方がよいかもしれない。いずれにしろ,シンプリシティーは日本美術を考える際のキーワードであるといってよい。しかし,この語によって日本人を性格づけた文章があることを,黙っているのはフェアでないだろう。それは芳賀矢ー著『国民性十論」の「灌洒淡泊」の項に出てくるのである(注5)。日本人は伊勢の大神宮をむかしの儘に保存した通り,多くの神社には依然としてむかしの単純な白木造りを棄てなかった。白木の三方に八脚の机代物({月昔}物)[きたいもの]を捧げることはむかしの通りであった。この単純装飾の趣味に適合して-571-
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