鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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実感できることだ。誤解のないようにいえば,多数派性はかならずしも正の価値をもたない。むしろ,多数派でありながらそれを認識しないことは,自己中心的な立場にたやすく陥る危険性をつねにもつ。日本国内における日本美術史の研究は,残念ながらその典型的な例といわざるをえない。しかも自己中心的な性格は,たとえば「日本人の国際化」などというスローガンのもとでは解消されないだろう。これが国内向けのスローガンだというだけでなく,もっぱらその意図が国境の向こう側にある多数派に対して対等の「われわれ日本人」という自己を主張することにあるからだ。「国際化」というとき少数派ははじめから無視されている(国境のこちら側の少数派に対しても同様だ)。そして,この自己中心主義がうけるもっとも手厳しく深刻な批判は少数派からのものだ。ここで有効な処方箋が提示できるわけではないが,自己の立場を検証し相対化する方策の確保がまず第一歩だとはいえるだろう。少なくとも,美術史学も美術史研究の実践も現今の世界の政治・経済・社会のさまざまな仕組みと無縁であるはずはなく,この事実を視野におさめることなしには今後の展望が開けることもないように思う。らその他の活動:その後引き続き,セッションの主催者スタンレー・アベ氏の招請により,セッション発表の内容を増補・拡張した「明治後期における身体の再構築と『美術』の制度化」ォルニア州立大学サンディエゴ校のステファン・タナカ氏(歴史学科准教授・日本史)とくに同校では,タナカ氏をはじめ日本研究プログラムにたずさわるマサオ・ミヨシ(日本文学),タカシ・フジタニ(日本史),リサ・ヨネヤマ(日本文学)の諸氏と討論の機会をもち,多くの知見を得た。「明治期における身体の再構築と『美術』の創設」要旨:明治期における国民国家の創設はさまざまな造語を要求した。「美術」もこのようなことばの一つとして,1873年のウィーン万博の出品区分のなかのKunst-gewerbeの翻」(ThePhysiog-(The Reconstruction of the Body and the Institutionalization of "Bijutsu" (Fine Arts) in the Late Meiji Period)を同氏のデューク大学で発表した。また,カリフの招請により,研究発表「文化の人相学—和辻哲郎の古寺巡礼nomy of Culture : A Pilgrimage to Old Temples by Watsuji Tetsuro)を行なった。-575-

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