訳語としてはじめて登場する。これ以後「美術」は,博物館・学校・古器物保護などのさまざまな制度確立の基本理念として重要な役割を担うことになった。受け入れる一方で西洋画を排除するという保守的な方針ゆえに記憶されることになった。とりわけ出品規則の一項目が注目される。そこでは,掛幅・屏風・画巻などの伝統的な表装形式が排除され,絵を額におさめて提出することが求められた。いいかえれば,絵画がタブローと同等の機能を発揮することが意図されたわけだ。この伝統的表装形式の拒否は古い時代の絵画にとっても重要な意味をもった。明治以前の史料は,表装形式が絵画と享受者を結びつける役割をもち,しかもその結び付きが視覚だけでなく,聴覚と発話,そして手と身体の運動をとおして実現されていたことを示唆している。近代以前の絵画が美術の称号をあたえられ,不特定多数の人々に開放された展示場への召喚に応じたとき,絵画はかれらの眼差しの対象としての役目を引き受けることになった。つまり「眼の神殿」という新式の空間は,表装形式のなかにもともと象嵌されていた本来の享受者の身体を排除したのだ。この伝統的絵画の身体の解体は,国民の創設に欠かせない人間の身体の再構築と呼応している。身体再構築の基本は軍隊教育と学校での体育のなかで実現されたが,興味ぶかい点は美術の展示場もまた国民の身体を鍛え上げる制度として機能したことだ。それは軍隊や学校が身体を鋳直したほど徹底したものではなかったものの,視覚の訓練という点でもっとも効力を発揮することになった。1882年,明治政府は内国絵画共進会を開催したが,この展覧会は伝統画派をすべて-576-
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