鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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ラペル•ア•ロードルフォーヴ15)は,当時どのように認識されていたのだろうか?示され,アポリネールのカタログ序文はマチスの本能の追究や光,色彩の探求に,そしてピカソの叙情的な表現に言及した。展覧会評の中で,ビシェールは同時代の状況にふれながら,「過度な印象主義と自然主義の中に取り残された若者たちもまた,“自然の断片”にうんぎりして古典主義と秩序への回帰を目指していた(……)画家たちはよい作品を作るためにはいずれにせよ知的であることは無駄ではないと漠然と感じていた。この信条を勝利せしめようと試みた者の中でマチスとピカソはもっとも才能があり,完璧な到達点を実現しうる可能性のもっとも大きい画家である」と述べ,ピカソとマチスをともに若い画家たちが目指す反アカデミスム的で,知的で古典主義的な,秩序への回帰のリーダーと見倣している(注13)。しかし戦前からマチスに注目していたヴォークセルは同じ展覧会に寄せた批評で,マチスについて,「彼のプリミティヴィスムはより自発的で直載である。誰よりも才能があり,誰よりも感覚の鋭い,何と奇妙で奥深い画家だろう。感情と知性の驚くべき混合」と述べ,知性のみならず感性の共存する特性を強調する(注14)。そして20年代のマチス評は実際この知性と感情,古典主義と印象主義,セザンヌとルノワール,さらには造形性と人間性といったいくつかの主要な概念と系譜を巡って交錯する。先に述べたように,第一次大戦後のアカデミスムの衰退はマチスやピカソといった当時すでに中堅となっていた戦前の前衛たちを画壇の中心に押し上げた。そのことはマチスに関して言えば,多くの新聞,雑誌評のみならず,大戦後批評家たちの序文を付した画集のたぐいが相次いで出版されたことにも示されている。そのように増大して行く言説の中で今日言われている第一次ニース時代におけるマチスの画風の変化(注マチスの第一次ニース時代における画風の変化を否定的な側面からいち早く指摘したのは,1917年にピカソとバレエ『パラード』をともに実現し,このスペイン生まれの画家の新たな古典主義的方向への変化に立ち会い,やがて『秩序の喚起』を出版することになる詩人ジャン・コクトーだった。彼は「太陽に満ちた野獣はポナールの小猫になってしまった」と述べて,マチスが強烈な色彩によるフォーヴィスムからボナールやヴュイヤールのような,印象派を継承する穏やかで親密な画風に転換したことを示唆する一方,「マチスはセザンヌやかつての巨匠たちの作品に隠されていた幾何学性や深い熟練もなしに制作している」と述べてセザンヌに結び付けられた堅固な構成の欠如を指摘する(注16)。さらにアンドレ・ロートは1919年のベルネイム=ジュヌ画-50 -

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