20年代の「オダリスク」が持つ意味は,そのオリエンタリスム自体にあるというよりい相貌もまたその“肉体”を見ようとする者の視線を妨げない。その後の「オダリスク」に関してしばしばモデルがフランス女性であることの痕跡や室内の装飾の人工性が指摘されているが,そうした側面を含めて,マチスのオダリスクはアングルからルノワールに至るこの主題の伝統を引き継いでいる(注44)。シルヴァーは,マチスにとって初めて国立のリュクサンブール美術館のために買い上げられるという名誉をもたらしたこの作品を,当時のフランスにおける植民地政策の高まりとの関連で論じているが(注45),すでに戦前からモロッコを主題とした作品を描いていたマチスにとってはむしろ,当時の杜会的な関心に沿ったオリエンタリスムという形式で,つまり植民地争奪を巡る戦争の勝利者であり植民地の支配者であるフランス人男性の欲望に捧げられた「オダリスク」の主題を通して,マチスが自已のきわめて私的なセクシュアリテの表現を可能にしたということにある。初期からブルジョワとの対立ではなく協調を宣言していたマチスにとって20年代の変化とは社会的なイデオロギーに順応したことにあるのではなく,むしろそれ以前のような造形的な抽象化記号化を経ることなく対象からひきだされた私的な感情や感覚の表現を解放したこと,デッサンの捉え直しを通してそれを可能にする方法を見いだしたことの方にある。それはマチスにとって単なる休息や緊張緩和ではなく,造形上の前衛性よりも人間性や生命観,精神性といった価値を強調する時代の意図に応じた,‘‘表現”への新たな取り組みであった。そして西欧芸術の伝統において,男性芸術家が女性の身体=自然に形態を与えることは常に“精神的営為”としての芸術の典型に他ならなかった。またそれはマチスの「オダリスク」と「裸婦」の境界がしばしば曖昧であることをも説明する(注46)。オダリスクが当時の植民地政策の高まりの中で受け入れられたように,裸婦の主題もまた当時の多くの画家の関心と共通するものだった。セザンヌの「水浴図」やルノワールの晩年の作品がマチスを含めた後の世代のこうした傾向を刺激したことは確かであるが,マネの『オランピア』以降展開されてきた,歴史画的な主題を担わない裸婦がこの時代にしだいに市民権を得るようになっていたことはそれ以上に重要な点である。20年代にはサロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌ,あるいは1923年に創設されたサロン・デ・チュイルリーなどに多くの「裸婦Jが出品された。1924年に出版されたフランシス・カルコの『近代絵画における裸婦(1863-1920)』(注47)は,20年代に繰り返し画廊などで開催された「裸婦」を主題にした展覧会とともに(注-57-
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