48),こうした状況をよく反映している。1925年,アカデミスムに支配されていたリュクサンブール美術館に替わって新たな国かくして自らの芸術上の新境地と同時代の文化的な語法との協調の中で作品を生み続けたマチスは,この時代フランスにおいてもっとも重要な現代画家となるのである。立現代美術館の創設が議論されていたフランスで,新しい現代美術館に収集するにふさわしい画家についてのアンケートが行われた際,マチスはピカソやボナールをおさえてもっとも多数の支持を得た(注49)。マチスはフランスの伝統と現在を担うもっとも重要な画家と見倣されたのである。しかし,すでにこれまで見てきた通り,その評価が造形的な革新性といったモダニズム/フォルマリズムの観点とは異なる視点に基づいていたことは言うまでもない。1925-26年にマチスが再び人体の造形的な実験に向かった『模様のある背景の装飾的人体』〔図9〕(パリ国立近代美術館蔵)がフランスの一部の批評家から,造形的な意図が優先され,裸婦の表現がおぎなりになっていると批判された(注50)のは,アメリカにおいてモダニズムに基づく20世紀美術史観を作り上げることに寄与したアルフレッド・バーが,1931年のニューヨーク近代美術館におけるマチス回顧展の際にこの作品に1916年以前の傾向の復活を見,「これまでの小奇麗な自然主義に対する反動」と高く評価した(注51)のと対照的である。今日においてもアメリカを中心に形成されたモダニズム/フォルマリズムの歴史観に基づいてマチスの20年代を軽視する見方は根強いものがある。しかしまたフランスのナショナリズムとその固有の時代の文脈から離れて,マチスを20世紀を代表する画家と見倣す国際的な評価の基盤となってきたのはこのモダニズムの枠組みにほかならないのであり,この枠組みを外れてマチスの20年代を,そしてマチスの芸術そのものをどう見るのか,という極めて難しい問題に十分な答えはだされていないのがマチス研究の現状であった。本調査は1920年代前半のフランスのマチスを中心とした美術批評を精査することによって,これまで基本的にはモダニズムに由来する造形的観点から古典主義への回帰,秩序への回帰と一般化されてきた当時の現代美術を巡る論点の中心をその本来の文脈に沿ってより的確に明らかにし,それによってこの時期のマチスの作品の変化に内在する意図と意味をより具体的に指摘した。マチスが選び取った表現形式の意図と意味を,その時代の文脈の中で正確に理解し読み取ろうという試みは今始まったばかりである。-58 -
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