鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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る1790年代のアクワティントについての先行論文があるだけである(注4)。パエスはが1790年8月16日に起こった火災を記録した《マヨール広場の火事》〔図1〕は,炎上2.バルトロメ・スレダとアクワティント-1824)に才能を見出されてイギリスに同道し,版画の新技法を習得したのである。ベ1797年3月5日と4月5日にマドリードの美術アカデミーで作品を発表し,新しい版3. ゴヤとスレダ4点ほどの作例を挙げている。そのなかでホセ・ヒメーノ(JoseXimeno, 1757-1797) する建物や煙の部分にアクワティントが効果的に使われており,特に注目される。バルトロメ・スレダ(BartolomeSureda, 1769-1850)は,アクワティントの紹介者としてスペイン版画史に名を残している(注5)。マヨルカ出身のスレダは美術を学んだ後,首都に移りアグスティン・デ・ベタンクール(Agustinde Betancourt, 1758 タンクールはいち早く産業革命を経験したイギリスの進んだ工業技術をスペインヘ紹介し,初代の機械学校の校長を勤め,工業技術の分野で傑出した業績を残した人物である(注6)。スレダは,1793年11月から1796年10月までロンドンに滞在し,帰国後の画技法アクワティントをスペインに紹介したとされる。ただしこのときの作品が具体的にどんなものだったかについては,「墨の淡彩を真似た技法」で「建築の設計図に役立つ」という記録が残っているだけで,まだ解明されていない(注7)。スレダはさらに翌1798年に出版された,ブエン・レティーロのなかにあった王立機械展示室(RealGabinete de Maquinas)の機械のカタログの図版4点も制作したが,新技法の成果はここにも見てとれる(注8)。現在,国立銅版画院に所蔵されているスレダの2作品,《クレーンのモデル》〔図2〕の小船や《液圧プレス機のモデル》〔図4〕の人物の服の表現を見ると,彼がアクワティントに充分習熟していたと判断される。また他の版画家の閲版と比較してみると,スレダの版画には本米の目的を超えて,人物や背景などに必要以上の情景描写の行われていることが明らかである。スレダはまた,アクワティントの紹介者というばかりでなく,息子アレハンドロの後年の証言を根拠にゴヤにアクワティントの技法を教えた人物と特定されている。アレハンドロが父親とゴヤについてドン・フアン・デ・バレンシア伯爵へ語ったことばを,1904年にペレス・ビリャミルが記録しているのである。厳密にいえばスレダがゴ-70 -

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