鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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4.ゴヤの版画によるベラスケスの模写28日付けの『マドリード公報』に9点からなるエッチングの発売予告が掲載され,同年12月22日にはさらに2点の発売が報じられた。実際にはこれに《ドン・フェルナンド13〕の制作を順に追っていくと,エッチング自体にもヴォリューム感を出す工夫がみヤに教えたのは「メゾティント」と記されているが,研究者はこれをアクワティントと特定している。さらにゴヤはスレダから学んだアクワティントの技法を『気まぐれ』に応用したという解釈までが定着し始めている(注9)。興味深いことに,スレダが美術アカデミーでアクワティントの作品を発表した1797年は,まさにゴヤが『気まぐれ』の前段階である版画集『夢」を制作していた時期である。その後2年におよぶ『気まぐれ』の制作過程ではアクワティントの習熟度があきらかに高まっていくことが見て取れる。また後にゴヤは,スレダと妻の肖像画をそれぞれ描いており(注10)'ゴヤとスレダに交流が続いていたことがうかがえる。ただしこれまで見たように「画家」ゴヤの版画と「技術者」スレダの版画には,あくまでも技法的な接点が,それもいかにも啓蒙の世紀らしい接点があるだけである。その制作目的,ふたりの立場の違いからか,美術史の問題として両者の作品が充分に比較・調査されてきたとはいえない。ところが一方でゴヤは,この20年前の1778年に新王宮に所蔵されていたベラスケスの油彩画を版画複製し,「ベラスケスの版画による模写」を制作していた。1778年7月親王》と《バルバロハ》の2点が追加されて計13点が出版されたと考えられるが,その出版年は正確には特定されていない。この他4点の試刷りとプレート・マークのある下絵素描が1点存在する。また下絵素描は合計12点が現在伝わっており,版画による模写はもっと多く計画されていたはずである。注目したいのはアクワティントが初歩的なレベルながらも計6点の版画で試みられていることで(注11)'下絵素描と試刷りから判断すると,ゴヤはアクワティントを試行錯誤を繰り返しながら用いたことがうかがえる。またヘスサ・ベガが指摘するように,黒チョークの下絵素描はエッチングだけの版画に対応し,赤チョークによる下絵素描は複合技法に対応している(注12)。試刷りが多く残る《ドン・フェルナンド親王》〔図5-10〕と《バルバロハ》〔図11-られ,エッチングの腐食のあとにアクワティントが均ーに背景にかけられている。アクワティントはエッチングの補足的技法として用いられ,まだ実験的な段階で試され-71-

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