5.今後の研究課題17)。実際技法上の差異はどの程度あったのであろうか。第2点は,もともとゴヤがなんの意図を持ってベラスケス作品の版画による模写をたと判断できる。1778年12月にゴヤがサパテルヘ宛てた手紙からはベラスケスの模写をさらに続ける意図のあったことがうかがえるが,技法上の失敗から残りの版画の出版を断念したと考えられるのである(注13)。発表された13点の銅版が1792年2月に王立銅版画院に購入されることから,このアクワティントは1778年から1792年のあいだにゴヤの手元に銅版があったあいだに制作されたことになる。最近,研究者のあいだでは1780年代中ごろの制作ということで一致をみている(注14)。『気まぐれ』の場合と同様に,下絵素描からエッチングヘ,さらにアクワティントヘとベラスケス作品の版画模写の制作過程を検証し,新技法を用いたゴヤの意図に積極的な意味を与えることができるであろう。ただし10年以上前にベラスケスの模写でゴヤがすでにアクワティントを用いていたとしても,もちろんそれは1797年のスレダの直接の影響を否定するものではない。『夢』を制作していたゴヤに,より大胆なアクワティントの用法を教えたと考えることもできるからだ(注15)。ここで今後検討すべき問題点,矛盾点を次の3点に整理してみたい。まず第1にスペインでは誰が最初に,どのようにアクワティントを試みたのかという問題である。これは換言すれば,1780年代後半に『マドリード公報』に掲載された新技法の記事,1797年にスレダがロンドンから持ち帰った“最新”の成果,それにゴヤの「ベラスケスの模写」のアクワティントの実験,以上の3つの事実をそれぞれどう解釈し,時間的に位置づけるかという問題にほかならない。現在のところ1790年のホセ・ヒメーノの作品に先行するアクワティントの作例は伝えられていないので,仮にゴヤが「ベラスケスの模写」のアクワティントを1780年代に試みたとすれば,スペインにおけるアクワティントの知られ得るもっとも初期の作例ということになる(注16)。ただしここで留意しなければならないのは,広義にアクワティント「aguatinta」と考えられる技法が,当時のスペインでこの他「アグワダaguada」や「墨の淡彩を真似たimitara la tinta china」技法というように様々に表現されていることである(注-72-
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