つ。試みたかということである。これまで研究者はいくつかの仮説をあげてきたか,まだ定説をみない(注18)。ただし注目したいのが,当時美術アカデミー会貝であり,美術史家であったアントニオ・ポンス(AntonioPonz Piquer, 1725-1792)が『スペイン紀行』(1778年刊)の第6巻のなかでスペインで複製版画が普及せずに王室の見事な美術品が国外で知られていないことを嘆き,また第8巻の序文でゴヤの複製版画を「賞賛すべき企て」と好意的に言及している事実である(注19)。ゴヤは「ベラスケスの模写」発表直後の1780年,《キリストの傑刑》(プラド美術館蔵)を提出し,アカデミー会員に推挙されている。この複製版画には,もちろん経済的な動機もあったであろうか,それにもましてアカデミー会員に推挙される直前の,社会的昇進を望むゴヤ自身の意志が強く反映されていたのではないであろうか。推測の域を出ないが,特にアクワティントの実験は画家としてより高い地位を得ようとするゴヤの意欲を象徴しているのかもしれない。「ベラスケスの模写」と『気まぐれ」の制作過程にアクワティントの試行錯誤が共通し,また広告を通じて販売を試みるという点も共通していることを指摘しておきたい。とすれば従来あまり重要視されてこなかったこの複製版画連作の制作意図は,もっと積極的に評価されるべきであろな意味から版画の需要が高まった当時,訓練と習熟を要求するビュラン彫りと比較的容易に試みられるエッチングとの使い分けが,アカデミーの版画家と画家のあいだに存在したと考えるのが妥当かということである。複製版画において時間のかかるビュラン彫りが一般的であった当時,ゴヤか「ベラスケスの模写」でエッチングやアクワティント等の混合技法を用いた事実はきわめて意図的なものを感じさせる。当時もっとも影響力のあった版画家サルバドール・カルモナがゴヤのベラスケスの版画による模写をどう評価していたのかは不明だが,1789年以降,カルモナも王室の絵画コレクションの複製版画に取り組んだ事実は興味深い。またアクワティントが美術アカデミーの版画の外で,一部の版画家によって主として試みられていた事実も示唆的である。以上のように,ゴヤとアクワティントとの接点は,『気まぐれ』における独創性を考えるための重要な前提となるばかりでなく,18世紀末のマドリードのアカデミーを中心とした美術状況を解明する鍵のひとつとなりうるのである。第3点は18世紀後半のスペイン版画の状況に関わるより広範な問題である。実用的-73 -
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