部に飛天が配された飛天光とすることである。本光背のこのような特徴は古くは飛鳥時代の法隆寺・釈迦三尊坐像の光背にみられる。ただし釈迦三腺像光背では身光部は頭光部から張り出さず垂直に降りている。また現在飛天がみられないが,周縁部に飛天が配されていたと復元でき,飛天光であることも同様である。奈良時代の光背の遺例は少ない。しかも遺例をみる限り多様性に富んでいて定型というものを認めることができない。そのなかで唐招提寺・慮舎那仏坐像光背は装飾文か多数の化仏であって全く異なるが頭光部と身光部の関係は近い。ただ身光部の張りは大きく曲線的になってきている。奈良時代末から平安時代初期では新薬師寺・薬師坐像光背や勝常寺(会津)・薬師坐像光背の外形の形制に近いところがある。しかし新薬師寺像光背では身光部は唐招提寺像光背よりもさらに曲線的で大きな楕円の中央部が取り付いている形ともいえる。勝常寺像光背に至っては身光部はすでに円形になってしまっているが,外形に舟形をとどめている状態といえる。一方,密教の影響のもとに造立されたと考えられる尊像では,東寺西院・不動明王坐像光背は身光部は円形であるがやや楕円である。周縁部があったらしいが信仰的な理由から修理されずどのような外形であったか明らかでない。観心寺・如意輪観音坐像や慈尊院・弥勒坐像光背は頭光部身光部ともにきれいな円形である。このように検討してくると,本光背の形制上の特徴は飛鳥時代以後奈良時代末まで,場合によっては平安初期頃までにみられるものといえよう。(2) 構成頭光部は中央から,間弁をもつ複弁八葉の蓮華文,細かい追い彫りの輻状文帯,―重紐の界線で囲まれた(葡萄)唐草文様帯となっている。身光部も蓮華文に相当するところか無文である以外は頭光部に同じ。この頭光部・身光部をめぐる外周は蓮唐草に七体の化仏を配し,上半,蓮唐草の外側に雲文を置く。次いで二重紐の界線で括り,外側に列弁文。最外周はおそらく雲煙上の飛天が取り付けられていたと思われる。光脚部は薬の覗く蓮華を横長に置く。(3) 左右の彫りの相違について(以下左右という場合,光背そのものの左右を指して使用する)本光背を観察すると,以下に列記するように中央線を境として左右の彫りがもつ特-81-
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