鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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注IV 残された問題態と考えられる。宝相華(花唐草)文の中でも,花形ではなく特に果実(房)を意識したといえよう。ということは受容期以来の葡萄唐草の強い影瞥のもとにある宝相華唐草なのである。模古作と考えられる光背から,原作と伝承されている像の様式を考察するという本研究にはさまざまな検討が必要である。①まず現存する光背の制作年代を明らかにすること。模古作であるかどうかの検討も含む。②その結果,模古作ならば原作の制作年代の推定。③模古作ならば,『七大寺巡礼私記』等の記述に当てはめることができるかどうか。④当てはめることができないならばあらためてその制作事情。今回の報告はそのうち①では形制と文様の検討から模古作と考えた。②については手本とされた(葡萄)唐草文様は,日本では初期受容期ではなく,おそらく八世紀に入ってから一世紀間の制作。さらに非常に葡萄唐草の意識が強いが,II-(2)ー④に相当する展開を示しているので,八世紀中頃以後ではないだろうかと推定したい。葡萄唐草と宝相華唐草が絡んで互いに変容し,あるいは混交していったと推測したのだが,その過程をさらに具体的に,遺例が非常に少ないが,明らかにするという課題が残された。他に頭光部の蓮華や蓮唐草と七仏化仏などの検討が残されている。①の制作年代については,平安時代後期,薬師寺別当である輔精已講が八角円堂を建立し本尊を造立した時期(足立氏)と,輔精已講の別当在任中である長和3年(1014)から長暦元年(1037)の間(井上氏)(注6)の二説が提唱されている。私は八角円堂本尊や,輔精已講の別当在任中に限定せず,輔静已講の権別当(長徳4年=998)時代は薬師寺復興時期に当たるので,その時期も含めて考えたいと思う。これは③④とも関係することで,その問題も含めて今後の課題としたい。(2) 『七大寺日記』(校刊美術史料寺院篇上巻藤田経世中央公論美術出版)傍八角瓦葺賓形造堂アリ,薬師寺別裳補清〔輔静力〕巳講,以定朝令奉造丈六釈迦像アリ,可拝見,依有指夢告,賜金峯山金ヲ,成金容埜云ヽ,尤可拝見,「七大寺巡礼私記』(校刊美術史料寺院篇上巻藤田経世中央公論美術出版)(1) 光背の法量(現状)高さ356.8cm幅233.8cm-87 -

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