鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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⑩ 高麗時代菩薩形像の形式研究—日本に伝わる作例を中心に一研究者:鎌倉国宝館学芸貝内藤浩之朝鮮半島における仏教彫刻史は,三国時代(高句麗・百済・古新羅)から統一新羅時代にかけて幾多の研究蓄積があり,日本においても同時代の彼我の作例の影響関係を主題とする論考がなされている。しかし高麗時代(918■1392)以降の彫刻史については,基礎的データの不足や個別作例研究の遅れにより,日本はもとより韓国においても編年に対する理解に不十分な点があり,個々の作例の位置付けが十分に行われているとは言い難い。さらに近年各地で地方自治体を中心に悉皆調査が行われ,少しずつではあるが高麗時代の制作と思われる作例が紹介されつつある一方で,そうした新知見の作品を体系的に位置付けて理解するための高麗彫刻の形成と展開の流れは,なお漠然としたものであるのが現状といえよう。本報告では高麗時代の菩薩形像の遺例について,日本に伝わる作例を取り上げ,主に形式の面から編年作業の材料を抽出することで,その全体像を理解するための一段階とするものである。対馬のなかほどに位置する長崎県豊玉町所在の観音寺本尊である。像内に紙本墨摺種子曼荼羅・木製合子・穀物・水晶等をはじめとする数多くの納入品が籠められており,そのなかの紙本墨書結縁文から,本像が天暦三年(1330)二月に高麗国瑞州浮石寺本尊の観音菩薩像として造立されたことが知られる(注1)。銘文中の浮石寺は,韓国忠清南道瑞山市に今も法灯を伝える島飛山浮石寺のことと思われるが,詳しい寺史は明らかではない。ただし寺伝によると,新羅文武王十七年(677)に義湘(625■702)により創建,朝鮮王朝(1392■1910)はじめに無学自超(1327■1405)により中興されている(注2)。自超は入元僧で,帰国後に朝鮮王朝の太祖李成桂の帰依を得て王師号を賜り,王朝初期の仏教界を主導した高僧として著名である(注3)。本像が浮石寺から観音寺に伝来した経緯は詳らかでないが,推測が許されるならば,1370年代から80年代にかけて最盛期を迎えた倭寇により,海岸に程近い位置にある浮石寺は被害を受けて衰微,そののち荒廃ぶりを受けて自超が王朝建国時(1392年)から没年(1405年)のあいだに再興した可能性が考えられよう。像は宝髭を結い,宝冠(亡失)を被り,法衣・僧祇支.措等をまとって,耳瑶・胸飾.腕釧.f嬰塔(1) 観音寺銅造観音菩薩坐像〔図1〕-99 -

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