(1394)に秀関和尚が創建したという。本像は応永年間(1394■1428)に朝鮮半島に前,左手膝上でともに第一指と第三指を捻じて結珈践坐する姿で,おおよその像容が観音寺像・普明寺像と同様である。頭体各部の把握は伸びやかで普明寺像に近いが,同像ほどの相好の厳しさや装飾・衣摺等の緻密さはうかがえず,むしろ観音寺像の穏やかな像容に一脈通じるものがある。つまり長得寺像は,普明寺像と観音寺像の両方の特徴を兼ね備えていることから,様式的な系譜においては両像のあいだに位置するものとみることができよう。したがって制作年代は十四世紀をいくらか入った頃におくのが穏当であろう。(4) 本願寺銅造菩薩坐像〔図4〕島根半島の西側付け根,島根県多岐町に位置する巌青山本願寺は,応永元年渡って梵鐘(慶州廻真寺旧蔵,1011年ヵ,注6)・饒鉢・高麗写経(紺紙金字妙法蓮華経巻第三〜七,延祐二年;1315書写銘あり,注7)とともに請来したもので,長く本願寺の子院である慈眼寺に安置されていたが,近年本願寺に移された。梵鐘は慶長十四年(1609)に堀尾吉晴により松江城に移され,のち寛永十五年(1638)に松平直政により城下の天倫寺に寄附されて,高麗写経とともに今に伝わる。像は宝習を結い,宝冠(亡失)を被り,法衣・僧祇支.拮等をまとって,耳墳・胸飾.腕釧.f嬰塔をつけ,右手は胸前にかざし(全指先欠失),左手膝上で第一指と第三指を捻じて結珈跛坐する(脚部右半分遊離)姿で,おおよその像容が先の三躯の像と同様である。身体各部の把握は的確で,観音寺像のように頭部が体躯に比して大きく表されることもなく,また前傾しないで背筋を伸ばすなど,基本的な身体構成は普明寺像に近い。衣文の処理もやや硬い点が見られるが,観音寺像はどの装飾性は見られず整理されたものとなっている。しかし頭部の表現がいくらか緊張感に欠けるものとなっており,五列に結い分けた宝皆は太く,眼.鼻・ロは面部いっぱいに配され,耳も正面向きになるなど,全体にバランスを失している。先述した衣文の硬さなどと併せて考えると,普明寺像のような先行する作例に倣おうとしたために,身体各部の有機的なつなかりが失われたのであろう。したがって制作年代は,普明寺像や長得寺像よりも下り,観音寺像よりも上がる,1310■20年代頃と考えられよう。-101 -
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