鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
112/711

であるが,身体各部の把握は自然で,複雑な体勢であるにもかかわらず身~構成には(5) 宝泉寺銅造菩薩坐像〔図5〕長崎県対馬厳原町に所在する玉雲山宝泉寺は,室町時代に宗家第十代宗貞国の義弟,甫庵宗睦(1389■1479)が観音像を本腺として開いたとされるが(注8)'本像の伝来については詳らかではない。像は宝響を結い,宝冠(亡失)を被り,天衣・裾君等をまとって,胸飾.f嬰塔をつけ,左掌を腰部左後方にて地面に伏せ,右手は立膝とした右足の上において坐す,いわゆる遊戯坐の姿勢である。像高16センチほどの小像大きな破綻はない。宝髯の形状は普明寺像に近いが,相好は口元を小さくするなど童形像を想起させ,観音寺像に通じるような温和な表情をしている。小像のためか,胸飾・環塔,衣摺をはじめとする細部の表現には緻密さがなく,腹部に見える拮も結び目等を表すことなく淡白な処理である。作風から制作年代は,観音寺像をいくらか下(6) 安昌院銅造菩薩坐像〔図6〕東寧山安昌院は玄海灘上の福岡県大島にあり,前九年の役(1051■62)で敗れた安倍宗任が配流された地に,遠縁の妙任尼が建立したと伝えるが(注9)'本像の伝米については詳らかではない。ただ大島は古代から九州と朝鮮半島をつなぐ中継地点の位置にあり,中世には宗像大宮司家の水軍の主力であったとされ,また文化八年(1811)には朝鮮通信使が安昌院に宿泊していることが知られるなど,伝来の事情にかかわらず本像のような請来仏が当寺に祀られるのもごく自然の成り行きといえよう。像は単髯を結い,宝冠を被り,条吊・天衣・拮等をまとって,耳瑶・胸飾.臀釧.腕釧をつけ,両手は屈腎して左掌を正面を向け,右手は垂下してそれぞれ第一指と第二指を捻じて結珈訣坐する姿である。像全体に装飾性が著しく,一部欠失があるものの華麗な蓮華唐草文を施した宝冠,面部いっぱいに広がる切れ長の眼,房をつけた大きな耳堪・太くねじれる垂髪,耳蟷と同じ意匠を中心に据えた胸飾・腎釧,腹前に表された拮の結び目,下腹部と膝上で並行に弧を描いて垂れる天衣等,体躯の量感を覆い隠さんばかりに配されている。さらに腰部を絞ることで痩身を強調しているが,こうした装飾性の強さと体躯を絞る表現は,金剛山出土の伝来をもつ韓国国立中央博物館所蔵の金銅観音菩薩坐像に見られるような,ラマ教の影聾を受けた作風と相通ずる。しかし中央博像が膝を左右に大きく張り出しているのに対し,本像は上半身る14世紀半ばと考えられる。-102-

元のページ  ../index.html#112

このブックを見る