10),古くから将来仏であると当地でも認識されていたことが知られる。一方,個人は背筋を伸ばして前傾することなく直立するが,脚部は膝幅・坐奥ともに狭く,また膝高も低いなど,安定感に欠ける身体構成となっており,ラマ風の高麗的な解釈による一遺例とみることもできる。量感に乏しい体躯,腰高な上半身,衣摺の硬さ等に,高麗時代から朝鮮王朝時代にかけての過渡期的作風がうかがわれ,制作年代は14世紀後半におかれよう。(7) 金谷寺銅造菩薩坐像,個人蔵銅造菩薩坐像両像ともに一見して像容が酷似しているので合わせてとりあげる。長崎県壱岐所在の桜江山金谷寺は弘治元年(1555)に異雪和上が開いたというか,本像はもと当寺の下堂に安置されていたという。また「唐土より渡る赤銅の仏といふ」と伝えられ(注蔵像は聖武天皇により創建されたという福岡県の一貴山夷魏寺政所坊に伝来したとされているが,どのような経緯で同寺に伝存したかは詳らかではない。ただ夷魏寺が所在したという一貴山は唐津湾を臨む位置にあり,松浦党の勢力圏に入っていたことから,その伝来についてもそうした点を考慮する必要があろう。像は宝髯(欠失)を結い,宝冠(亡失)を被り,法衣・僧祇支.拮等をまとって,胸飾・堪塔(亡失)をつけ,金谷寺像は右手胸前,左手膝上で,個人蔵像は左手胸前,右手膝上でともに第一指と第三指を捻じて結珈践坐する姿である。両像ともに卵型の面部中程に目鼻立ちが集まった相好で,口の両端から顎の括り線を明確に表す点,波状にうねらないで真っ直ぐに伸びる垂髪,別製の胸飾.I嬰塔が現状すべて亡失しているために一見すると装身具が配されていないようにみえる点等,ほかの高麗彫刻に見られるような穏和な童形の像容と異なり,いくらか冷た<峻厳な印象を特徴としている。そこで本像の制作地を朝鮮半島ではなく,中国大陸に求める意見もあるようだが,基本的な形式は通例の高麗彫刻に見られるものである上,相好も国立中央博物館石造菩薩坐像(江陵寒松廃寺伝来),月精寺石造菩薩坐像(江原道),満願寺銅造菩薩立像(山口県)等の高麗時代前期から後期にかけての作例に通じる部分があり,決して突出した特異性をもつものではないといえる。像高は70センチを越えて,この期のものとしては大型の部類に含まれることや,直立した上半身や的確な身体各部の把握は,両像が類例中のなかで優作に属することを物語っているが,一方では衣摺の処理がいささか硬く概念的であるのもまた事実で,制作年代は13世紀まではさかのぼりえず,14世紀前半におくの-103-
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