鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
114/711

が穏当といえる。さらにはとんど彫出を施していない体部背面の処理の単調さからすると,あるいは14世紀半ばまで下る可能性があることも留意すべきであろう。(8) 満願寺銅造菩薩立像本像は山口県防府天満宮境内の天神本地観音堂に安置されているが,同宮は神仏分離以前まで九つの社坊を有する酒垂山満福寺という真言宗寺院であった。『防長寺社由来』の記事によると,やはり満願寺所蔵で天神本地観音堂の傍らの小堂に安置される,高麗時代の制作の銅造大日如来坐像の二躯の脇侍のうちの一つであったというか,両像とも別当である大専坊の什物であったようだ(注11)。しかしそれ以前の伝来については,詳らかでない。像は宝髯(亡失)を結い,宝冠を被り,条吊・天衣・拮等をまとって,耳蟷・胸飾.腎釧.腕釧をつけ,両手は屈臀して左掌は正面を向け垂下し,右手(手先亡失)は腹前にかざして蓮華座上に立つ姿である。火中により頭部・像側面・台座等が損傷し,いささか尊容を損なっている。面長の面部では両眼の間が離れ,口元は小振りで頬は豊か,また足先は萎縮して形式的なものとなっているが,下半身全体は腰高ですらりとした印象を与えており,今まで検討してきた諸像とは身体構成の点で顕著な相違点がある。一方細部を見ると,円環から垂飾を下げる胸飾の意匠や,拮紐の結び目を腹前と膝前の上下ニヵ所で表す点などは特徴的であり,さらにその紐の先端が蓮肉にかかって正面の蓮弁にまで至る点は衣の柔らかな質感をも表現しており,注目される。また本像と相好や胸飾の意匠をはじめとする様々な点できわめてよく似た作例が,韓国国立中央博物館に伝わっている(注12)ほか,やはり胸飾や拮紐の結び目が同様に表されている作品として,韓国忠清南道所在の霊塔寺銅造毘慮舎那三尊坐像の両脇侍がある。中央博像は満願寺像とほぼ同時期・同工房による制作と見て間違いないが,霊塔寺像は高麗時代前期から中期にかけての作と見られており,満顧寺像よりは先行するものとみてよいであろう。特に台座の形式に注意すると,霊塔寺像は仰蓮と伏蓮の間に格狭間を施した腰部を設けるが,満願寺像では仰蓮と伏蓮の間に薄い敷茄子を挟むのみで,朝鮮王朝時代の遺例に多く見られる形式に近い。したがって,満願寺像は高麗時代前・中期の様式を受け継いだ14世紀後半の制作とするのが穏当であろう。以上,日本に伝存する高麗時代菩薩形像の作例九躯について検討を加えてみた。制-104-

元のページ  ../index.html#114

このブックを見る