鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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—学僧凝然の歴史観の反映~⑪ 東大寺伝来の「頂相形式」を有する戒律復興期の祖師像について研究者:早稲田大学文学部助手萱場まゆみはじめに鎌倉時代に興った戒律復興運動に関連する南都の祖師像は,東大寺,唐招提寺,西大寺を中心に数十幅が伝来している。現在までのところ上記の祖師像に関しては昭和四十年代を中心とする平田寛氏による研究が主要なものとして挙げられる程度である。しかし平田氏は,南都律苑の祖師像を網羅的に調査,研究され,画風や,作品相互の影響関係,成立年代について綿密な論考をされ又,法会や受戒などの儀式におけるこれらの祖師像の用途に関しても示唆された(注l)。本研究は氏の一連の論考に大きな学恵を受けているが,これらの祖師がなぜ像主として選ばれたのか,なぜ宋代に一般的な高僧像の形式(本稿では便宜的に「頂相形式」とする)を有するのかなどの成立の契機については平田氏はその後の課題として残されたようである。一方,ここ数十年の間に仏教史学方面において,律僧,華厳宗僧の活動や戒律復興運動の意義,に関する新知見も提示されている(注2)。本稿では,東大寺戒壇院や尊勝院を中心に伝来する祖師像を,上記の歴史学的な研究の成果も取り入れつつ,一連の祖師像の制作の背景にある,新しく確立した祖師観を手がかりに考察したい。その祖師観の成立に関わっているのが,戒壇院主にして希有の学僧であった凝然(1240-1321)である。以下,凝然の著述における歴史観や系譜意識をもとに画像の成立の契機の一端を明らかにしてゆく。戒律復興期の時代背景東福寺開山の聖一国師円飼弁円に師事した無住一円が弘安二年(1279)から同六年(1283)にかけて著した著名な仏教説話集『沙石集』には,下記のようなくだりがある。「唐ノ龍興寺ノ鑑真和上,聖武天皇ノ御宇,本朝二来テ,南都ノ東大寺,鎮西ノ観世音寺,下野ノ薬師寺,三ノ戒壇ヲ立テ給ヒ,毘尼ノ正法ヲヒロメ,如法ノ受戒ヲ始メ行ジシカドモ,時ウッリ儀々スタレテ,中古ヨリハ只,名斗リ受戒卜云ヒテ,諸國ヨリ上リ集リ,戒壇ヲ走廻リタル計リニテ,大小ノ戒相モ不知,犯制ノ行儀モ-108-

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