不弁。ワヅカニ藤次ヲカゾヘ,空シク供養ヲウクル僧宝ニナリハテ、,持斎持律ノ人跡モタヘヌル事ヲ嘆キテ,故笠置ノ解脱上人,如法律儀興隆志シ深シテ,六人ノ器量ノ仁ヲ撰テ,持斎シ律学セサシムト云ヘドモ,時至ラザリケルニャ,皆正体ナキ事ニテアリケレドモ,堂衆ノ中二器量ノ仁ヲ以テ,常喜院卜云所ニテ,夏中ノ間律学シ,持斎スベキ供析ナムド斗ヒヲカレタレドモ,夏党レバ持斎モセズシテ,如法ノ儀ナカリケルニ,近此彼学者ノ中ヨリ発心シテ,如法ノ持律ノ人,世間二多シ。彼本願上人ノ御志ノ感ズル所ニャ」大意を述べると「鑑真によって日本に伝えられた戒律も時を経るにしたがって,受戒そのものが形骸化してしまった。笠置寺の解脱上人貞慶(1155-1213)はこれを憂い,戒律の研究を始める。当時はまだ機が熟するに至らず,その貞慶のもとでさえ持戒をするものが次第に減っていったが,その一方では仏教の教えにかなった持戒を志す人も出てきたのである」(筆者訳,注3)。ここには筆者である無住の戒律に対する歴史観が表されている。「夏中ノ間戒律シ,持斎スベキ」とあるのは夏安居のことで,毎年四月から七月(旧暦)までの三ヶ月間は,出歩く事をやめて戒律を学ぶ期間とするよう述べた部分である。このような僧侶としての基本さえ守られなくなっていた事,またそうした状態を克服する動きがあった事を,戒律復興運動に関係しなかった無住でさえもが記している。その動きこそが,これから本稿で論ずる所の戒律復興運動であり,この運動が佳境を過ぎ,一定の社会認識を得た頃に無住によって『沙石集』が記されたのである。筆者は,戒律復興運動の仏教界における認知度を示すために『沙石集』を引用したが,戒律復興運動がこのようにひとつの区切りを迎えようとしていた時代は,平田氏の言葉を借りれば,奈良仏教が成熟し収束してゆく時期でもあり,戒律復興運動の当事者である凝然自身によっても華厳宗,律宗について明晰な分析がなされている(注4)。その分析の内容については後述する。治承4年(1180)の兵火で灰儘に帰した東大寺では,勧進の重源による大仏殿,南大門などの復興事業に続き,戒律の研究が盛んになり,実質を伴わなくなっていた受戒の機能の復興も進められる。既に,弘仁十四年(823)には比叡山にも大乗戒壇が設けられ(注5)東大寺戒壇の存在意義は,戒壇が東大寺,筑紫観世音寺,下野薬師寺の三戒壇に限られていた古代と比べた場合,その存在意義が危機にさらされていたはずである(注6)。中世興福寺において始まった戒律復興運動の中心となった東大寺,唐招提寺,西大-109-
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