鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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3 至相大師像(同上)伝来:戒壇院,制作年代:不詳(2-1, 2-2。筆者注)と像容も画風も酷似する至相大師像」は,本来は「一具をなし4 圭峯大師像(華厳宗第五祖,応永20年・1313岐陽方秀の賛あり)伝来:東大寺像主は左手に巻子を持ち,右手は第一指と第ニ・三指を捻じ,法被を掛けた椅子に向かって右を向いて座す。『六大寺大観』で,平田寛氏はこの「清涼.圭峯両大師像ていたものと思われる」と述べられている。本至相大師像は,特に清涼大師像(2-1)とポーズ,顔が非常に密接な関係を持つように思われる。一見して,禅宗の頂相と同様な形式であるが,賛が画像上辺の色紙型に記される点が異なる。像主の相貌は2-2の圭峯大師像よりは大阪久米田寺本の圭峯大師像に近い(注14)。上記の祖師像のうち,2から4までの「頂相形式」を有する清涼大師,圭峯大師,至相大師は,唐土華厳五祖のうちの三祖である。2-1■3までの華厳祖師像が一具のものとして現在伝わっているとしたのは,同じ桐箱に収納され,この蓋裏墨書および蓋裏貼紙から明らかに一具の五祖像として伝来したことが確認されるからである。しかし,これらの華厳祖師像で,元々一具として制作された可能性が画風の点から指摘できるのは,2-1の清涼大師像と2-2の圭峯大師像のみである。さて,清涼大師,圭峯大師や至相大師が頂相形式で描かれたり,泉涌寺本とは別系統の,仁和寺本の白描の高僧図巻に見られるような図像が存在していた南山律師が改めて頂相形式で描かれたということにはどのような意味があるのだろうか。大観的には南都仏教における宋代仏教の受容の諸相が問題となる。東大寺の華厳宗や律宗が宋代仏教の経典や文物と接する窓口は,泉涌寺,高山寺,東福寺との交流や円照の高弟真照の入宋と帰朝などがあり,その受容のあり方は多層的なものであろう。なお,宋元の肖像画の影響を受けた「頂相形式」と華厳祖師の像主の組み合わせが東大寺華厳宗のオリジナルなのか,大陸からもたらされた原本があったのかは,管見では断じ得ない。ただ,「頂相形式」の華厳五祖が伝来する例は,戒壇院本をさかのぼるものは,戒壇院の影響を受けた久米田寺の画像以外は確認されていない。なお,現存する画像の制作期は南北朝から室町期にかけてであり,凝然の活躍期との隔たりが大きく,凝然自身が直接これらの画像の成立に関与することは不可能であるが,こ-112-

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