れらの華厳祖師像が凝然の歴史観を反映しているという点は指摘できるはずである。く四部律祖師像〉南都における戒律復興運動は,中川寺実範や笠置寺に隠棲した解脱上人貞慶ら(いづれも本来は興福寺僧)の興律運動に始まり,嘉禎2年(1236)の覚盛,叡尊,円晴,有厳ら四僧の東大寺における自誓受戒を経て,覚盛は唐招提寺を,叡尊は西大寺を,覚盛の弟子円照は東大寺戒壇院を中興し,円照の弟子凝然の時代に教学的な整理統合が行われた。戒壇院住持として円照を引き継いだ碩学凝然は多くの著述を残したが,戒律に関しても多くの論述を行い,教学的,歴史的な体系付けを行っている。凝然の律宗に対する歴史観が凝縮された『律宗綱要』は特に戒壇院伝来の祖師像制作にも大きな影轡力を持っていたはずである。俊窃は宋の慶元六年(1199)に入宋し,十二年にわたる滞在の後帰朝して四部律をもたらし,京都東山に泉涌寺を開き開山となった(注15)。俊窃の律は一般に,南都律に対して北京律と呼ばれている。現在泉涌寺に伝来する,四部律の制定者南山大師,及び北宋におけるその再興者大智律師元照の二幅の祖師象は,俊初がもたらした宋画であり,その画像は戒律復興運動を通して東大寺,西大寺など南都の寺院の画像にも受け継がれた(注16)。以下,戒壇院伝来のく四部律祖師像〉を更に凝然の歴史観との対応関係を考察するために更に仏教史学的観点から[鑑真系の四部律][宋代仏教の四部律]に細分し,多少の説明を試みる。[鑑真系の四部律]5-1 南山大師像(応安五年・1372の中巌円月の賛あり)伝来:戒壇院,制作年代:鎌倉末期5-2の鑑真和上像と対になっている。椅子に座した像主は向かって右を向く。画面上方に,応安5年(1372)の年紀を有する中巌円月の賛が別絹で貼り合わされている。像主の向きは左右反転しているが,泉涌寺本を原型としている。5-2 鑑真和上像(応安五年・1372の天境霊致の賛あり)-113-
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