筆者は7-2の画像を「大智,凝然ダブルイメージ像」であると考える。本画像の形式は禅宗の頂相そのものともいえる。右手に払子を持ち,法被を掛けた椅子に向かって右を向く像主が斜めから描かれる。普一国師志玉は華厳と律を兼学。応永二十四年(1417)入明し,同二十八年に帰朝。画像は周文筆の伝承がある。第二章教学の整理統合と宋代仏教の摂取戒律復興期に,頂相形式で華厳五祖や南山大師が描かれた点について,東大寺華厳宗や,東大寺律宗という「宗派」を考えた時に,何らかの事情なり意識なりが働いていた事は想像に難くない。一方,円照上人(7-1),凝然上人(7-2)などの戒律復興運動に携わった同時代僧の画像を考える上で,円照の伝記である『円照上人行状記』をはじめ多くの著述を残し,教壇の歴史観を確立した凝然の存在は大きいはずである。つまり,碩学凝然の著述活動に基づいて形成された,教団にとっての祖師に対する歴史観が,画像に反映されているのではないかと考える。そこで,次に凝然の著述からその系譜意識を明らかにしてゆく。学僧凝然の歴史観凝然の研究,執筆活動は多方面にわたるが,その中から戒壇院主として律宗の教理や伝統に対する考え方を最も完成された形で表しているのが晩年近くに書かれた『律宗綱要』である。この中で凝然は戒律の教理と歴史を体系化している。又『法界義鏡』は「華厳教学の構築にさいして,法蔵(第三祖香象大師,筆者注).澄観(第四祖清涼大師,筆者注)路線をもって正系と断じ,その路線の根本を一真法界,四種法界の線でとらえ,奈良時代以来の不安定な華厳教学の体系化に成功させた」(注20)著書で,華厳宗の祖師について一章が費やされている。凝然の著作は多方面にわたる。『法相宗祖師伝』や『諸宗伝通録』など,タイトルのみしか伝わらないものの(注21)凝然が祖師について記したものだけを見てもそれか律宗や華厳宗に留まらない点から,おそらく彼は八宗兼学の博識を以て,南都仏教の整理,統合,体系化をめざしていたと思われる。戒壇院住持の凝然が学究活動を通して戒律復興運動の歴史的意義を再確認した時代8 普一国師像伝来:戒壇院,制作年代:室町前期-115-
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