鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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は,第一章にも述べたように,同時に南都仏教にとって成熟を迎え,その来し方を透視し,ことを平らかに語りうる老境にはいった時期でもあった。しかし,凝然が系譜や祖師の整理,系統化を行った本来の意図は決して政治的なものではなく,諸先学に敬意を払いつつ,僧侶として自らの系譜を確認し,仏教者としてのアイデンティティーを確立するための努力でもあったと考える。これは,『法界義鏡』では華厳宗として立場を異にする栂尾高山寺の明恵上人にも敬意が払われていることからもわかるし,凝然の著作には誰かに対する否定的な書き方自体が観られない。晩年になっても「老眼を拭い,病手を励まし」(注22)つつ著作活動を続けた凝然の情熱は,教団に僧侶としての誇りと祖師たちへの畏敬の念を育てたであろう。凝然の学究活動により形成された教団の系譜意識を反映して,これらの高僧像が制作されたことは,想像に難くない。凝然は,華厳宗に関しては,以下のように宋代の華厳学者,晋水浄源の打ち立てた七祖説を採用している(注23)。たとえば,永仁三年(1295)に凝然が記した『法界義鏡』には「大唐の華厳には,帝心を始めとし,相承依憑して,惣じて五祖を立つ。大宋の浄源は,立てて七祖とす。天竺に二祖,馬鳴と竜樹となり。東夏の五祖,即ち前に列するがごとし。この故に華と梵と惣じて七祖とす。」とある。凝然がとったこのような五祖説あるいは七祖説は,尊勝院主で凝然が華厳の教えを受けた人物である宗性が建治元年(1257年)に明恵の法孫弁清から借用,書写せしめた東大寺伝来の『華厳祖師伝』二巻には見られないものである。又,律宗に関しては唐代の南山道宣よりは北宋の大智律師元照の思想に従っていることが指摘されている(注24)つまり凝然には,南都仏教を体系化するにあたり宋代仏教を広く摂取し,鎌倉の時代性にあった南都仏教の枠組みを構築することを目指していた側面がある。『律宗綱要』における大智律師元照の位置は南山宗の第十五祖であり,鑑真と俊窃はただ南山宗の流れを汲むものとして説明されている(注25)。特に注目すべき点は,鑑真に関しては,南山大師道宣の弟子弘景律師から具足戒を受けたと凝然の『律宗綱要』に記される(注26)ことである。南都律宗にとって特別な存在であるはずの鑑真を,あるいはその特別さゆえにであろうか,四部律の大きな流れの中に位置づける作業をも凝然は行っている。本稿で取り上げた南山・鑑真,南山・大智-116-

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