鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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思想大系十五,岩波書店,1971年11月)p.426—①。(10) 『東大寺三』(『六大寺大観』第十一巻,1972年2月,岩波書店)を参照した。(12)注10前掲『東大寺三』p.69(13) 注10前掲『東大寺三』p.69図53および平田寛「久米田寺の華厳関係の絵画に(14) 平田寛「華厳五祖の画像」(『金沢文庫研究』197,1972年9月)の図版によって(15) 俊布の帰国は東大寺における覚盛らの自誓受戒に先立つこと二十五年である。(16) 注1前掲平田論文,記載論文名順にp.23およびp.25。(1り大智律師伝『仏祖統紀』29(大正新修大蔵経49)(18) 注10前掲『東大寺三』p.70の平田氏による解説,および注1前掲平田「南都の(20) 鎌田茂雄,「法界義鏡の教理史的意義」(『禅学研究』58,花園大学禅文化研究所,1970年3月)p.50(21) 『華厳宗経論章疏目録』(『大日本仏教全書』仏教書籍目録1)(22) 『五十要問答加塵章』巻第一奥書(大屋徳城『凝然国師年譜』,1921年12月,東大(23) 鎌田茂雄「南都教学の思想史的意義」(『鎌倉旧仏教』日本思想大系十五,1971年ける半身像の成立一日本の場合」(『美術史』127,1990年2月)がある。(8) 海老根敏郎「宋元時代禅宗人物画の研究(水墨画と頂相)」,『鹿島美術財団年報8号』(平成2年度版)(9) 南都の律師像については海老根氏の論考以前に平田氏も同様の見解を述べられている。特に画像の制作年代に関しては同書記載の平田氏の説に従った。本研究は禅宗の頂相研究を相対化するための比較対象をつくることに端を発しているため,主な対象は頂相形式を取る祖師像である。親番号が同じ画像は現在対幅として伝来している。(11) 明代のテクストである李霜『玉本山慧因高麗華厳教寺志』(『武林掌故叢編』,台聯國風出版社・華文書局聯合印行)巻三「祖徳」,および凝然『法界義鏡』(日本ついて」(『奈良国立文化財研究所年報』1970,1970年11月)。確認。大智律師画像」p.24(19)注10前掲『東大寺三』p.72 寺勧学院)。凝然最後の著作である。原文は漢文。-119-

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