鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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11月,岩波書店)p.555。*なお,明恵の法孫弁清から東大寺の宗性か~治元年(1257年)に借用,書写せしめた東大寺伝来の『華厳祖師伝』二巻はこの「七祖1993年5月)p.714。(初出は『密教文化』112,1975年)上田氏は,凝然ら円照説」をとっていない。(鈴木一男編『華厳祖師伝』<『南都仏教』53,1985年3月〉を参照)(24) 上田霊城「鎌倉仏教における戒律の宗派化」(森章司編『戒律の世界』,渓水社,門下は,泉涌寺俊窃の法孫である浄因の影響を受けており,従って,?疑然の戒観は北京律の影響を経て大智律師元照に由来する事を指摘している。(同論文(25) 凝然『律宗綱要』(大正新修大蔵経七十四)p.2348—①,および佐藤達玄『現代語訳律宗綱要』(大蔵出版,1994年7月)pp.274■275。伽)『律宗綱要』p.18—②闘注28前掲鎌田論文p.59。(28) 平田寛「華厳五祖の画像」(『金沢文庫研究』197,1972年9月)p.2 (29) 凝然自身が華厳と律とどちらに自らをより強くアイデンティファイしていたかという点は現時点では明確にしがたい。?疑然の著述の奥書には,『法界義鏡』にあるように「華厳宗沙門凝然」と記されるのが最も多い形式だが,『梵網戒本疏日珠紗』や『律宗境鑑章』などの律宗に関する大作には『華厳兼律(金剛)欣浄沙門凝然』と記される。(なお,『律宗綱要』の奥書は「大正新修大蔵経」では確認できない)p. 716) -120-

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