鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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1100)が手を袖にしてじっと聞き入り,琴尾冠・紫道服の陳景元が玩を奏で,唐巾.(1043■1100)がその傍で諦聴するとある。雅集の実在を前提に検討すれば元祐元年(1086)または2年(1087)であった可能性が高く,現存する「西園雅集図」は基本(1137■1213)「祓王都尉湘郷小景」(『攻魏集』巻77)では「雅集図」が登場し,その深衣を落た米帝が頭を上げて石に題書し,王欽臣が手を袖にして仰ぎ見る。袈裟姿の円通大師釈懐賢(?■1082)が蒲団に坐して「無生論」を説き,幅巾・褐衣の劉涅的にこの李公麟画に基づいていることになっている。さらに,元時代末には,この後,元祐年間,趙令1B寺(1061■1134)が主催して再び行われたとされている。しかし,近年になって参会した文人たちの文献を改めて照合した結果によれば,『宝晋英光集』中の「図記」は偽作であり,事の不在が証明されたものと見なしてよかろう(注3)。但し,「雅集図」が人的交流を示すことを目的にした集団肖像画であると理解すれば,各人の不在証明(アリバイ)は逆に文人たちの間の繋がりの強さを示しているに過ぎない。「西園雅集」という故事・画題が存在し,明時代以降「西園雅集図」が多く現存することは厳然たる事実なのである。従って,何時の時点かは不明でも,そのドキュメントが創作されねば,現在のような状況は有り得ないのである。南宋時代,既に「雅集図」が存在したことは文献によって知られる。南宋・楼鎗根拠として参会者の一人である秦観の詞「千秋歳」や詩「題務中壁」の一句を掲げている。ここでは参会者として玉読・蘇拭・黄庭堅・張未・秦観の名が見える。又,劉克荘(1187■1269)「鄭徳言書画・西園雅集図」(『後村先生大全集』巻104)では宗室の李端應や王読を賞賛し,雅集が元豊2年(1079)の「烏台詩案」以前にあったことを指摘している。ここでは「龍眠(李公麟)墨本」がその比較の対象として登場している点も注目される。しかし,これらの図様では共に「図記」の記述によって確定された16人の名を確認することはできない。つまり,これらは「図記」が「西園雅集図」を描く動機を示す典拠として焦点化する以前のものであると見なせよう。作品を見てみよう〔図1〕。本図の図様が『宝晋英光集』補遺の記載とは合致していないことは容易に見て取れる。巻頭,水辺を侍童たちが陸行・水行でやってくる。画面は一端巨岩で遮られ,その奥に建物が覗いている。橋が架かっており,一人の文人が侍童を連れて,文人・僧侶たちの集まりに加わろうとしている。4本の松の間--122 -

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