7)中でも主である龍眠居士李公麟が払子や羽扇をもって登場しており,画後半にはの16名が全て名付けられることはない。それは南宋時代の文献と同様に「図記」といる。では,主要メンバーである李公麟は何処であろうか?払子をもって米苦に対座する人物がその人であると考えられよう。伝李公麟「山荘図巻」(台北故宮博物院,注「西園雅集図」に参照された可能性のある場面も見出せる〔図4〕。画面上方までびっしりと描き込む景観描写なども「山荘図」原画の図様を意識したのではなかろうか?既に指摘した通り,本図巻には陶淵明の分身が2人も描き込まれており,「図記」うテクストによって「西園雅集」の図様が焦点化される以前でありつつ,「帰去米図」をこの会の催しの1つにしている点で「図記」と共通していると考えられよう。「西園雅集」に参会したとされる人物は蘇拭を中心にした1日法党の人々である。煕寧・元豊年間は王安石(1021■1086)を中心とする新法党が政権を掌握し,旧法党の高官は次々に隠退致仕していった。参会者たちの繋がりはこの頃から認められる。蘇軟の周囲には文人集団が形成され,詩文の贈答などを盛んに行うようになっていく。煕寧の初には既に王輩・王読らとの交友があったと考えられ,煕寧4年(1071)に張未,6年(1073)に提補之,10年(1077)に秦観,元豊元年(1078)に黄庭堅が相次いで蘇氏の門をたたき「蘇門四学士」がそろった。元豊元年には僧道潜との交友が始まり,さらに黄州では米苦らが,元祐元年(1086)に李公麟・陳師道らが加わったとされている。この集団の大半は官僚で,それぞれ赴任地にあって,地方にいた者も多い。又,在野の禅僧や道士など幅広い層が加わっている。次の元祐年間は旧法党が政権に帰し,蘇軟にとっても最も得意の時であった。蘇門四学士もみな中央に集った。この頃の盛時とされたのが「西園雅集」とすれば,それは文雅の会といっても政治的色彩の濃い集まりと見なされたと考えられよう。この後,再び旧法党から新法党に政権は移り,蘇拭をはじめ参会者とされる人々は左遷され,地方に赴いた。しばらくして李公麟は蘇拭らと距離をおくようになったという。党派の争いはさらにエスカレートしていった。蘇拭の没後すぐに「元祐党籍碑」が現れて,旧法党派は弾圧・追放を受けることになった。しかし,異民族の金王朝が北半を支配した南宋時代に入って元祐党人の評価は一変する。北宋が新法党政権時代に滅亡したため,その責任が全て新法党派に帰され,旧法党派の名誉回復がなされたのである。-125-
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