鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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興7年(1137)に献上し,宋内府に蔵されたという。このようにその経緯を北宋の滅1357)「述古堂記」(『金華黄先生文集』巻14)に示されている。それによれば,李公(1114)に「図記」の内容に酷似した記を作った。部誇が端渓円硯にそれを刻し,紹この南宋時代初期には北宋時代末の文人において展開した造形活動が注目される。米友仁(1086■1165)が父である米苦の書画を意識したものを盛んに制作したのも,国土の北半と同時に失われた文物・文化的伝統を継承しようという側面があったからであるという(注8)。この当時の画壇において李公麟の画は宮廷・在野を問わず重要な存在であった。後の南宋画院に圧倒的な影響力を持った高宗画院の李唐,高宗・孝宗2代の皇帝の側にあって古典「詩経」を絵画化した馬和之,在野の画僧梵隆らはみな李公麟の達成した白描画を継承した作品を遺している。例えば,伝李唐「晋文公復国図巻」(メトロポリタン美術館)は李唐における李公麟画の受容の在り方を示す作例で,着色画ながら人物表現は白描画の趣がある。この時期には失われた李公麟画も「再生」され,さらに,李公麟とされる作品が盛んに創作され,「李公麟」イメージを形成していったことは容易に想像される。六和塔・孔廟など南宋の都杭州にその頃建てられたモニュメントにも李公麟の原画による石刻が多く刻まれている。現存作品においても馬和之・梵隆の伝称をもつ多くの作品が伝李公麟画と同一図様のものである。その関係は複雑で,大半が後代の模本であるが,その一方で,こうした理解が後の時代まで継承されたことが知られよう。「図記」の内容の成立が両宋交替期に相当するという見解が,元・黄滑(1277■麟「述古図」の中の人物を鄭天民がそれぞれ蘇試ら名士に擬定して,政和4年亡と絡めている点は,上記のような事情を勘案すれば非常に輿味深いものである。劉克荘の「龍眠墨本」の指摘とも矛盾しない。蘇拭ら元祐党人の名誉回復がなされ,蘇賦・米苦・李公麟の周辺で展開した造形活動が注目され,画壇でも盛んに祖述されていた時代において,これら憧れの文人たちがみな集う文雅の会はまさに追憶の理想郷であったと見なせよう。李公麟の画が南宋画壇に果たした役割を勘案すれば,本画巻は馬遠画の中でもその史的位置を明示する最も重要な作例と考えられよう。楼鍮の文献より馬遠以前に既に「雅集図」が存在したのは確実で,さらに,本画巻成立以前に「図記」の図様の系統が創作されていたとすれば,馬遠はそれを意識しつつも換骨奪胎して描いたことになる。画家自身が「帰去来図」の図様を描き込むという行為は自分と李公麟の行為を重-126-

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