4)。ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂は1605年の秋には改築中であったが,次をカラヴァッジオはミラノで実際に見たか,あるいはこの祭壇画をもととした版画をローマで見たかして「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」の図像にそれを借用したというのが定説となっている(注3)。ここで,「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」の注文の経緯について見ておこう。残されたドキュメントから,この祭檀画の注文は,1605年10月24日には既に画家になされており,制作は1606年4月はじめまでの期間に行われたことがわかっている(注章で詳述するヴァティカンのパラフレニエーリ同信会は,旧サン・ピエトロ大聖堂の時代から聖堂内に自分たちの祭壇を所有していた。同信会は,改築後の聖堂内にも,新しい自分たちの祭壇を所有することを望んでいたが,その祭壇に設置する祭壇画として,カラヴァッジオに「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」を注文したらしい(注4)。しかし,既に述べたようにこの祭壇画の契約書は残っていないため,詳しい注文の経緯は闇の中である。一体,なぜ,パラフレニエーリ同信会がカラヴァッジオに注文をしたか?両者のあいだに,それまで何らかの関係(パラフレニエーリ同信会が画家に注文をしたこと)はまったくなかった。また,カラヴァッジオはヴァティカンと接触したこともなかった。パラフレニエーリ同信会はカラヴァッジオに直接注文をしたのであろうか?1605年秋までに,カラヴァッジオはローマで公的な注文を何点も受け,既に名の知られた画家であったので,これはまった<否定できなくはないことである。しかし,カラヴァッジオのそれまでの公的な作品の制作状況を考えてみた場合,実際には考えにくいケースであろう。そうすると,これまでこの作品についてはあまり考えられることがなかったが,この作品に関しても,注文主にカラヴァッジオを紹介した人物の存在を考える必要があるのではないだろうか。はじめに述べたように,パラフレニエーリ同信会は聖アンナを守護聖人としていた。旧サン・ピエトロ大聖堂内に同信会が所有していた祭壇にも,聖母子と聖アンナが描かれていたことがわかっている(注5)。パラフレニエーリ同信会が自分たちの守護聖人である聖アンナを,新しい祭壇画のなかに描きこむよう画家に注文をしたことは,十分に推測できる。問題となるのは,カラヴァッジオはなぜ聖アンナと「蛇の聖母」を一緒にした特異な図像をつくりだしたかということである。この問題についての説得力のある説はいまだに提出されていない。上にも述べたように,この図像表現はカラヴァッジオの創意によるものと考えるよりも,注文主からの,あるいはパラフレニ-133-
元のページ ../index.html#143