9)。祭壇画が拒絶された原因として,図像に問題があったことが考えられる。つまエーリ同信会にカラヴァッジオを紹介した人物,あるいは同信会とカラヴァッジオの周辺にいた人物からの何らかの助言によるものと考えられるのではないかと報告者は推測している。その助言者の意図は何であったのか。それから,なぜミラノのサン・フェデーレ聖堂の祭壇画の図像が1569年の教皇勅書に最初に反応したのかという素朴な疑問に対しても,これまで明確な答えが与えられていない。ローマーミラノ,カラヴァッジオーフィジーノを結ぶものは一体何であったのだろう。(2) 作品撤去の問題についてパラフレニエーリ同信会の新しい祭壇に奉献されることになっていた「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」が設置された直後に,祭壇からの取り外しを余儀なくされた原因については,既にさまざまな推測がなされているが,ここではこの事件の問題点について改めて整理しておきたい。この事件については,伝記作者のうちベッローリとバリオーネが言及している(注6)。まず,ベッローリは「聖アンナの絵はヴァティカンの小さな祭壇のひとつから取り外されてしまった。なぜなら,それは現在ヴィッラ・ボルゲーゼで見られるように裸の幼児キリストと聖母マリアが非常に下品に表現されていたからである」と述ベ,一方バリオーネは「カラヴァッジオはヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂のために聖アンナと,足で蛇の頭を踏みつぶしながら,両腕のあいだに幼児キリストを抱えている聖母マリアを描いた。この作品はヴァティカン宮のパラフレニエーリたちのために制作されたが,ヴァティカン造営局の枢機卿たちの命令により,聖堂から撤去され,そのあとパラフレニエーリたちによってシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に贈られた」と述べている。前節でも触れたように,4月8日の支払書が存在しているので,この日までに作品は完成されていたことは確かである。また,4月14日の祭壇画の取り外し工事の支払書によって,祭壇画は4月8日からこの日までのあいだにサン・ピエトロ大聖堂からパラフレニエーリ同信会の母堂であるヴァティカン内のサンタンナ聖堂に運ばれたことがわかる。その後7月20日には,同信会はボルゲーゼ枢機卿からこの祭壇画に対する支払いとして100スクーディを受け取っている(注8)。以上みてきたドキュメントの内容を総合すると「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」が撤去された原因については,これまで次のような仮説が提示されてきている(注-134-
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