り,聖母の大きく開いた胸元,幼児キリストの刺激的な全裸,そして,セッテイスらが指摘したように,老醜の聖アンナが蛇を踏む聖母子に無関心な態度でいること一これらの点は,いずれも聖画像としては品位(decoro)を欠いているとみなされ,それが原因でベッローリが言うように「造営局の枢機卿たちに拒絶されたこと」は十分考えられよう。また,図像の部分的な表現の問題のみではなく,カルヴェージらが指摘しているように,1569年の教皇勅書を受けてできた聖母子が共同して蛇を踏み付けるという図像に,聖アンナを結び付けるという「蛇の聖母」の図像自体の斬新さに,ヴァティカンの枢機卿たちは当惑したという推測も成り立つだろう。次に,スペッツァフェッロによって,拒否事件に関してとくに問題とされてきたのは,ヴァティカン内の勢力関係の問題と「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」拒否事件との関連である。レオ11世に代わって1605年5月16日にボルゲーゼ家出身のパウルス5世が教皇に即位した。対抗宗教改革運動に対して,ヴァティカン内にはフランス人枢機卿を中心とした穏健派(親フランス派)と厳格派(親スペイン派)のふたつの派が存在していたが,パウルス5世は後者に与していた。彼の即位にともなって,厳格派のトロメオ・ガッリ枢機卿の勢力が伸張し,「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」撤去に際しても,おそらくガッリの意向が大きくとりいれられたのではないかというのがスペッツァフェッロの推測である。拒否事件について以上のような問題点や,それに対してこれまで提示されてきた推測のほかに報告者がここで問題提起しておきたいことは,次の点である。残されたドキュメントからだけでは,パラフレニエーリ同信会が,完成したカラヴァッジオの作品に対して,いかなる反応を示したかはわからない。ベッローリが言うように枢機卿たちの反感をかったので,(やむなく)パラフレニエーリたちは祭壇画を撒去したのか,それともパラフレニエーリたちもこの祭壇画が気に入らずに,撤去に同意したのか(あるいは,率先して撤去したか)という問題についての真相はわからない。しかし,これは作品の図像の意味,図像の構想を助言した人物は誰なのかという,最初に提起した問題に関わる重要な問題である以上,これまでの研究よりも一歩踏み込んで考えられる必要がある。上でもみたように,パラフレニエーリ同信会はサン・ピエトロ大聖堂の改築にともなって,一度は自分たちの祭壇を失った。さまざまなことがあった末に手に入れた自分たちの新しい祭壇を今度こそ確保したいという強い希望がパラフレニエーリたちにはあったに違いない。しかし,彼らは記念すべき新しい祭壇を-135 -
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