長(cavallerizzomaggiore)もパラフレニエーリが務める。パラフレニエーリたち(Palafrenieri/Parafrenieri)とは,教皇が聖体節の折などに馬や馬車に乗って行進飾るはずであった作品の撤去を異例の早さで行い(設置からサンタンナ聖堂への移動まで,わずか数日間),撒去後はまたもや自分たちの祭壇を失った揚げ句,ふたたび祭壇を与えられることを誓願している(注8参照)。このような背景を考えると,パラフレニエーリ同信会は祭壇画の撤去を進んで行ったのではなく,同信会の外部から大きな圧力がかかり,撤去を余儀無くされたものと考えるのが自然ではないだろうか。拒否事件の真相は闇のなかにあるが,報告者はパラフレニエーリ同信会について調査をすすめることによって,以上述べてきた問題点について,謎を解くヒントが得られるのではないかと考えている。カラヴァッジオの作品がいかに受容されたかという問題は,カラヴァッジオ研究のなかでも最も重要なポイントのひとつとなると報告者は考えているが,カラヴァッジオは作品が受容される対象によって(たとえそれが小さな勢力であったとしても)図像を変えた。その場合,しばしばそれが伝統的な図像表現から大きく逸脱していることが多かったため,画家が想定した作品の受容者以外の受容者にはそれが受け入れられなかった。それが作品拒否などのスキャンダルの大きな原因になったのである。以上のような理由により「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」の注文主であると考えられるパラフレニエーリ同信会の実体や精神を探ることは極めて重要であると考えられる。II パラフレニエーリ同信会についてこれまでの「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」研究において,この作品の注文主で,作品の名前にも冠せられているパラフレニエーリ同信会については,本格的な調査がほとんど及んでいない。前章で述べたように,なぜパラフレニエーリ同信会がカラヴァッジオに祭壇画を注文したかという極めて根本的な問題について,はっきりしたことがわかっていないばかりか,そもそも「パラフレニエーリ」というものが何であるのかについてさえ,十分な認識がえられていないように思われる。そこで,まずここではパラフレニエーリの歴史と彼らのヴァティカンにおける位置や役割において整理しておきたい。日本語では「馬丁」とか「近衛兵」などと訳されることが多いパラフレニエーリする場合,それにつきしたがう役目を負った衛兵のことである。ヴァティカンの馬丁-136-
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