鹿島美術研究 年報第15号別冊(1998)
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し‘゜トしたりするものではなく,あくまで教皇の職務の簡単な補助程度のことであった。それから重要なことは上にも述べたように,パラフレニエーリ同信会のメンバーは枢機卿や各国大使たちなど,教皇庁のなかでも最も教皇の近くにいる,エリートたちによって組織されていたということである。アンナのための聖堂を建造することを許可し,そこをパラフレニエーリ同信会の本拠地とすることを命じた。聖堂は1573年に完成したが,それが,今日まで続くヴァティカン内,ポルタ・アンジェリカ脇に建つサンタンナ聖堂であり,カラヴァッジオの「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」がサン・ピエトロ大聖堂から撤去された後,ボルゲーゼ枢機卿の手にわたるまで,置かれていた場所である。ヴァティカン内に母堂を建てることを教皇に許可されるということからも,教皇がいかに厚くこの団体に保護を与えていたかが推測できよう。サンタンナ聖堂の建造については,アルド・チチネッリによる研究に詳しいが,ファサードは1576年に完成し,それ以後,会員をふやしていった。また,シクストゥス5世(在位1585-90)の時代には,パラフレニエーリたちに毎年聖アンナの祝祭日には,死刑囚ひとりに罷免を与える特権が与えられている。III 結びと今後の課題足かけ2年に及んでいる本研究であるが,まだ全体の方向付けとパラフレニエーリに関わる調査の第一段階が終了したに過ぎない状況である。パラフレニエーリたちに共通の信条(祭壇画の構想に何らかの影響を与えた?)のようなものがあって,ドキュメントとして残されているのではないかという予測は今のところ確かめられていない。しかし,この同信会の輪郭は今回の調査でかなり浮き彫りにすることができたように思う。今後はパラフレニエーリ同信会に関わる資料の精査を行い,それを「マドンナ・デイ・パラフレニエーリ」図像のとくに特異な聖アンナ像の意味の考察につなげていければと思う。勿論,同信会以外にもこの祭壇画の周辺にいた聖職者などの洗い直しも進めていく。カラヴァッジオのローマ時代最後を飾る大作のひとつであるこの祭壇画の図像に,パトロンー制作者という視点からさらに切り込みを入れていきた1565年ピウス4世はパラフレニエーリたちにヴァティカンのボルゴ・ピオ地区に聖1583年には開堂式が行われている。新しく本拠地をえたパラフレニエーリ同信会は,-138 -

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